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残酷な「遺伝の真実」あなたの努力はなぜ報われないのか

知ると後悔するかもしれない…
安藤 寿康 プロフィール

日本人の「努力信仰」

ここに教育のパラドクスがある。

実はこの知能や学業成績の「遺伝率60%、環境40%」は、学力が遺伝ではなく環境によるものであり努力によるものであるという、今の多くの人がもつ努力信仰の下に成り立っていると考えられるからだ。

学校教育が、初等レベルから国民全体に行き届くようになったのは、たいていどの国でも19世紀の中ごろからである。

それまでは身分、出自、家業によって受ける教育(「教育」という言葉ですら呼ばれていなかった子ども期のしつけや生業のための見習い訓練などまでふくむ)は異なっていた。

だから国民一人ひとりのもつ知識の差の多くは環境要因で説明されていたはずである。

〔PHOTO〕iStock

しかしわが国では明治維新をきっかけに成立した学制のもとで、村に不学の子がいないようにと、全国津々浦々まで小学校、中学校を配備させた。

そして校舎と職業教師とさまざまな読本などの教材を通じて、読み書きそろばんから文学・芸術・スポーツや、一生行かないかもしれない全国各地・世界各国の地理風俗・言語、さらには一生使わないかもしれない高度な科学的な知識まで、原則として国民すべてに開かれた。

日本人はこの新しくできた学校制度という環境の変化にいち早く適応し、もともと勤勉だった国民的性格が幸いして、立身出世のための手段として、誰もができる(はずの)「学校で努力する」という道をともに歩むようになった。

 

かくして現行の日本国憲法が謳うように「すべての国民が、その能力に応じて、ひとしく教育を受け」るようになった結果、文字通り「その生まれつきの能力に応じ」て学力格差を生んでいるというわけである。

このような見るからに絶望的な悲喜劇的状況に対して、目をつむるのでもなく、仕方ないとあきらめ思考停止するのでもなく、またそれでも40%の環境要因に「学力向上」の希望を託すだけで安心するのでもない(なぜならそれは遺伝的素質のない人ほどある人以上に努力や教育投資をしなければならないから、現実は安心などできないのだ)、別の考え方、もっと希望のある、そして現実的な考え方はできないのだろうか。