伊能忠敬と同じ歩幅で日本を歩き回る「謎の科学者」の正体

クマに遭遇、密漁を疑われ…
中川隆夫, ブルーバックス編集部

1枚の地質図作りに5年超をかけて

さて、いまの地質図づくりはどうなっているのでしょう。内藤さんに訊ねました。

「じつは、いまも5万分の1の地質図に限って言えば、人の足に頼っています。伊能忠敬の時代と同じように、歩いて調査します

GPSの精度が数cmの誤差に収まるという時代に、足で稼ぐ調査が行われている!? 21世紀の現代にも、伊能忠敬を地でいくような人たちがいるなんて驚きますね。

[写真]産業技術総合研究所・地質情報基盤センターアーカイブ室長の内藤一樹さん産業技術総合研究所・地質情報基盤センターアーカイブ室長の内藤一樹さん

しかし、航空写真を基に作ることができる地形図とは違い、表土に覆われた地面の下を調べるには、現場に行ってていねいに調査するしか手段がないのだそうです。内藤さんも、現地調査で地質図を描いてきたひとりですが、ここで若手の佐藤大介さんに登場してもらいましょう。

佐藤さんは昨年、岡山県から兵庫県をまたいだ「播州赤穂」地域の5万分の1地質図幅(図4。国土地理院が発行する地形図の図郭に合わせて作った地質図)を刊行した研究者です。この縮尺地図では、地域の長辺が23kmにもなります。こんなに広大な範囲の地質図を、どのようにして作るのでしょうか?

「3~4年をかけて現地を調査し、分析や解釈を加えながら地質図を作り上げるのですが、印刷まで入れると、一つの地域で5~6年の歳月を要します」

[図4]佐藤さんが作成を担当した「播州赤穂」地域の5万分の1地質図幅図4:佐藤さんが作成を担当した「播州赤穂」地域の5万分の1地質図幅
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地質図の作成は複数で行うことが多いのですが、現地での調査はたったひとりだといいます。

「3~4年のうち、総計240日以内で現地調査を終えるのが目安です。1回の出張で2~3週間ですね。地域の宿を起点に、毎日山に入る感じです。朝夕は宿の食事、昼はコンビニなどで買ったお弁当を調査現場で食べます。

危険な登山などがある場所以外は、基本的にひとりで歩きます。『播州赤穂』地域の場合は、合計200日ほど調査で歩いています」

佐藤さんが「山に入る」と言ったように、人里離れた山や谷が地質図作りの現場になります(図5)。

計測器をもって三角測量をしているような測量隊とは違って、かなり地味な作業です。「腰にハンマーをぶら下げている以外、ふつうのハイカーと見分けがつきませんよ」と内藤さんが笑顔で解説してくれました。

[図5]砕石場で地質調査を行う佐藤さん。写真中央から右は、火砕流堆積物に貫入する岩脈(撮影場所:兵庫県相生市相生)図5:砕石場で地質調査を行う佐藤さん。写真中央から右は、火砕流堆積物に貫入する岩脈(撮影場所:兵庫県相生市相生)

地質調査はまず、石や岩が露出している場所を基準に調べることから始まります。必然的に、崖が現れた場所や沢を歩くことになります。

町歩きでカフェを見つけるような楽しみとは無縁の、なかなかにたいへんな仕事のようです。むしろ出会うのは、クマなどの野生動物!

「クマには3度ほど出くわしましたが、なんとか無事でした。顔を合わせたときには、『私は何でもないから気にしないで』とクマに合図を送りながら、後ずさり。崖に隠れてあとは一目散に逃げるんです」と、豪快に笑う内藤さん。

それよりも、野放しの犬に吠えられ続けることや、頑固者の大地主がいる山のほうがやっかいだといいます。地質調査で山に入らせてくれと頼んでも、頑として聞き入れてくれないご老人もいたそうです。昔は、そんな人のために一升瓶を抱えて通った研究者もいたのだとか……。

海岸を歩けば、アワビの密漁と間違えられ、松茸の季節には、やはり泥棒に間違えられる。それでも現地調査は楽しいのだと、二人の顔は笑顔であふれます。

 

「3週間、現世と切り離されて、仕事に集中できるのは楽しいですよ。もっとも、最近では沢の奥に行っても、携帯電話がピロロロロと鳴ってしまいますが」(内藤さん)

3年間もその地域を歩き続けると、ともすれば地元の人より周辺の地域に詳しくなり、第二の故郷のように思えてくるそうです。そんな土地が日本全国にいくつもあるのは、うらやましい仕事ですね。