# 文学 # 思想

小池百合子の「排除」がなければ、立憲民主党もなかったという逆説

あなたを駆動する「物語」について⑥
赤坂 真理 プロフィール

人を駆動してしまう言葉

ただ、そうしたすべてを認めたうえで、あの言葉が「排除」でなかったら、希望の党があれほど失速することも、できたての新党・立憲民主党が野党第一党となることも、なかったとわたしは思う。

語気が強い、などと言いたいのではない。

「排除」が、人を駆動してしまう言葉だからだ。

それは、人の存在そのものにかかわる恐怖となるからこそ、人を強く、思わぬ方向に駆動する。

前に書いたように、内部からの感覚なしに「排除」と言った場合、それは「抹消」を連想させることになる。

「リベラル大量虐殺」は、それへの過剰反応ではあるけれど、その言葉のエネルギーに反応した言葉としては、興味深い。

「どける」というのが当たらない場合であれば、生存そのものをおびやかすしかないように、感じられるのが「排除」という言葉であろうと思う。

 

連鎖する「いじめ」

ここで面白いことに気がつくのだが、小池百合子自身、自民党から「排除」された人だった。

ある組織がとても居づらくて出た、というのは、体感としては「排除された」に近いだろう。公認なしという立場から、自民党候補を打ち破って都知事の座に就いたのが、小池百合子だった。

小池百合子が何よりいちばん嫌っているのは「しがらみ」で、自民党という古い「男性的組織」のマイノリティとしてよほど苦しい思いをしたのだろうと思う。

小池百合子、しがらみ〔PHOTO〕gettyimages

いじめられた人は、痛みがわかる分、人に優しくは、ならない。

いじめられた人は、さらに弱いものをみると、勝ち誇るのである。

言語センスの中に、一瞬刺した魔のような、そんな心理はあったのかもしれない。

そこを捉えられて、今度が自分が袋叩きになってしまう。

これはいじめの連鎖とよく似ている。

この国に「いじめ」という駆動体があるのではないか。

メディアが、よってたかっていじめるときの、一体感。これはなんだろう。

そこが、「排除」発言の顛末をめぐって、いちばん心が悼むことだった。

「排除」発言が、政治家の「舌禍事件」とはとらえられず、「炎上」と言われたのは、そんないじめ構造のためだったように思う。

野党はいつも、与党の、ここがだめだあそこがだめだ、と言い立てる。与党は、国民のうかがいしれぬメカニズムで政治を運営する。メディアはチェック機能を果たすというよりはゴシップに飛びつきたがる。

日本では、「政府」が「国民」にとって、いつまでも、つねに、「外部」なのではないか?

「排除」事件の、最も思いがけない、最も大きな副産物は、立憲民主党とその躍進だった。

これも、言葉が「排除」でなかったなら、生まれなかったことだとわたしは考えている。

なぜか?

排除された者こそは、強度のある物語を語るからである。