天皇も「一生の心残り」と悔やんだ、明治政府のある蛮行の記録

明治維新150年の光と影(2)
真鍋 厚 プロフィール

だが、そもそもの無理は、千年以上の歴史を持つ「神仏習合」の文化を、「神」と「仏」に切り分けてしまおうとすること自体にあった。土着と外来の信仰が解きほぐせないほどに混淆したものにメスを入れれば、「流血」は避けられない。

鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)は、自ら廃仏という「外科手術」を施し、寺院から神社に生まれ変わった。

鶴岡八幡宮は元々「鶴岡八幡宮寺」と称する「神仏習合」の神宮寺であり、江戸幕府の庇護の下、現在の数倍の規模を擁する一大神社・寺院地帯を形成してきた。

しかし、明治元年に八幡大菩薩が明治政府により廃止され、「廃仏毀釈」がいよいよ本格化すると、社僧は神主に鞍替えして、「僧尼不浄の輩、入るべからず」という掲示を立て、薬師如来が安置してある本地堂、愛染堂、神楽堂、六角堂などの主な仏堂を解体、古材木として売り払ってしまった。仏像や仏具なども破壊したり、焼却したりしたという。

奈良・京都でも…

古都・奈良ももちろん無傷では済まされなかった。明治4年、法相宗の大本山である興福寺(奈良県奈良市)は寺領を没収され、僧侶は春日神社の神職にさせられ、廃寺同然となった。その後、築地塀の東面・南面が撤去、同6年には一乗院東方の三蔵も破壊され、仏像や経典が焼却された。さらに、明治7年には食堂・細殿も解体され、事実上の壊滅状態となった。

 

同8年、西大寺住職が管理の任に就いて以降も、興福寺では仏像や経典・古文書など文化財の焼却や流出が相次いだ。三重塔は30円、五重塔は250円で売りにだされたという(*3)。興福寺の修復には、同14年の再興の許可を待たねばならなかった。

また京都では、祇園社が八坂神社に改称、北野天満宮が北野神社に改称、石清水八幡宮が男山八幡宮に改称させられた。奈良と同じく寺領や文化財の消失に多くの寺院が悲鳴を上げた。

これらはほんの一端に過ぎない。

例えば、各地の廃寺となった寺の数を知るだけでもその苛烈さが分かる。富山藩では、1600か寺以上あった寺院が6か寺にまで激減。薩摩藩でも1000か寺以上あった寺院が明治7年には全廃となり、藩内には一つの寺院も存在しなくなった。まさに「おどろくべき暴挙」(圭室文雄*1)であった。

当時の全国にあった寺院の約半数が廃寺と化し、途方もない数の文化財が廃棄・破壊され、果ては売買されたと伝えられているが、今もなおその正確な実態は掴めていない。

2001年にアフガニスタンのイスラーム主義組織「ターリバーン」が偶像崇拝禁止を掲げて、バーミヤン仏教遺跡群の石像を破壊すると世界中から非難の声が上がった。その際、日本政府は修復のための基金を設立し、最終的に3億円以上を拠出した。

だが、皮肉なことに、近代日本の夜明けを告げた明治政府は、「ターリバーン」など比較にならない規模の「ヴァンダリズム」(文化破壊運動)を容認していたことを、日本人として記憶に留めておくべきだろう。

後年、薩長出身者以外で初の内閣総理大臣となった大隈重信が回顧している通り、「寺を燃やしたり、仏像を壊しても、最初は別段注意することもなかった。これが事実である」(*4)。