2017.10.29
# 北朝鮮 # インテリジェンス

日本で生まれ育った若者が「北朝鮮工作員」にされるまで

私が出会った北朝鮮工作員たち 第4回
竹内 明 プロフィール

Yは英語能力を買われ、そのまま国際畑を歩んだ。

「このころ、Yは平壌やスイスに派遣され、滞在した。当時、駐スイス北朝鮮大使はリ・スヨン(党副委員長)で、この時にYは北の高官と繋がりができたらしい」(Yの知人)

在日同胞の友人・知人の目には、Yは祖国への忠誠篤い、将来有望なメディア人と映っていたはずだ。ところが、である。

周囲も驚いた、日本への「転向」

それは突然のことだったという。2001年頃、Yは朝鮮新報を退社、朝大の同窓会にも姿を現さなくなる。仲間との連絡を絶ち、在日社会から忽然と姿を消したのだ。

Yが(日本に)帰化したらしいという噂を聞いて、まさかと思いました。同窓会でも話題になりました。あの熱誠者のYが転向するなんて、私たちの間では衝撃的なことでした」

朝大の同窓生はこう話す。総連の機関紙で編集長まで務めた人物が、転向するなど過去に例はなかったのだ。

 

日本人となったYは、兵庫県尼崎市にある父親の運送会社を継いだ。子供たちは朝鮮学校ではなく、日本の学校に通わせた。

そして2006年、Yは神戸大学大学院に入学する。

「Yは朝鮮半島研究の教授に師事した。イケメン? いや、その当時は30代半ばだったから、明るくて気のいい、下町のおっちゃんという感じだったよ。学会の飲み会の幹事を積極的に引き受けて、教授や院生ともうまくやっていた。英語が得意で、本当は記者になりたかったと話していた」(大学院関係者)

総連で働いていた経歴は、隠していなかった。大学院の研究仲間には「総連と喧嘩別れして、帰化した。日本の大学で勉強をし直したいんだ」と話しており、総連との関係が完全に切れているという印象を与え続けた。

Yが父親から継いだ会社の経営は、うまくいっていなかった。周囲には、「潰したいけど、アルバイト代わりに続けている」と語り、いよいよ会社が傾き始めると、カネに困窮したらしく、2年間休学した。

「彼は学術論文も書かなかった。研究がしたいというより、日本社会に溶け込むために、日本の大学院で勉強をし直そうとしている印象だった」(大学院関係者)

Yを知る神戸大学の大学院OBは、彼の人柄を評価している。

「年はとっていたけど、極めて純粋な男。過ちはすぐ認めて謝るし、素直すぎる男だった。北朝鮮への不満も持っているし、総連にはもっと不満がある。日本人になってはいたが、北朝鮮は祖国だという思いが強かった。祖国と母国の両方に役立つにはどうすればいいか、常に考えていた

始まった「奇妙な迷走」

だが、この頃からYは奇妙な動きを見せ始めていた。

Yは、大阪にある北朝鮮情報誌の編集部でアルバイトを始めた。

この編集部には北朝鮮内部に協力者がおり、現地の庶民の声を届ける雑誌を発行していた。北朝鮮からすれば、ぜひとも内情を探りたい報道機関だったろう。当然ながら、北朝鮮内部にいる協力者の素性が漏れれば、情報源となる彼らには命の危険があった。

続いて、Yはラヂオプレスの採用試験を受けた。ラヂオプレスは、もともと外務省所管の外郭団体で、北朝鮮を中心とする旧共産圏のメディアの翻訳記事を日本の政府機関に配信するモニタリング機関だ。しかし、Yは一次の筆記試験で落ちている。

「惜しいミスが目立った。たとえば、『北朝鮮の特殊部隊が韓国大統領府を襲った青瓦台襲撃事件は何年に起きたか』という問題で、正解は1968年だが、Yは1969年と答えてしまったりしていた」(関係者)

Yは面接にさえ届かず不合格となり、ラヂオプレスへの就職は叶わなかった。

一見すると、こうした行動は報道機関へのアプローチであり、周囲に語った「本当は記者になりたかった」という言葉との矛盾はない。だがその後、Yはこんなことを言い始めたという。

「私は日朝の架け橋になりたい。北朝鮮は日本と交渉したがっている。金正恩は敵対する関係であっても、北朝鮮と日本は繋がっていなければいけないといっている。私は拉致問題をなんとか解決したい」

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