先進諸国の標準的な市民社会では、このようなことをする人物がいたとしても、一回だけいやな思いをした後で自由に距離を取ることができる。給料や学力認定を得るために義務となるのは、範囲が狭く限定された仕事や勉強だけだ。
それ以外の対人距離は、個人が魅力と幸福感にもとづいて自由に調節できる。だから、大きなダメージになることもなく、安心して生活することができる。
だが、日本の特殊な学級制度は、閉鎖空間に囲い込んで強制的にベタベタさせるよう、考え抜かれて設計されている。人間を個の人から群れの人へと内から変化させるのが、中学校の本当の目標である。
当然、兵営や刑務所のように、市民的な距離と個人主義が発生しにくいしくみになっている。逃げ場なく密着させて人を内側から変化させる爆縮レンズのような構造になっている(http://www.antiatom.org/GSKY/jp/Rcrd/Basics/jsawa-10.htm)。
日本の中学校のように、勉強ではなく、ベタベタ群れさせることに主眼をおいた学校教育は、世界でもめずらしい。
日本の中学校のクラスは、共に生きることを無理強いするための生活学級だ。どんなに嫌なひとたちでも、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、共に生きなければならない。
学校は勉強するためにいくところだ、と感じている生徒はほとんどいない。生徒にとって学校は群れて生きなければならないところである。それを個人で拒むことは許されない。
一人でいること、あるいは一人でいることを<みんな>に見られることは、異常で恥ずかしい。それは、考えただけでも凍りつくような恐ろしいことだ。
このベタベタした<距離なし生活>を強いられる閉鎖空間で、悪意の行為がこれでもか、これでもかと繰りかえされると、通常の市民生活では考えられないような、けたはずれのダメージが生じる。これが被害者の身に起きたことである。
学校の磁場が、被害者の菜保子さんを突き落としていくさまを見てみよう。
最初「いやなクラスになった」とこぼした菜保子さん。群れずに一人でいることが実質的に不可能な中学校で、たまたまA子らのグループで行動するようになる。その後、素行の悪いA子と距離をとろうとしたが離脱できなかった。
それから、自殺に至るまでの数ヵ月の急展開が起こる。菜保子さんは、A子らのグループに囲い込まれ、引き回され、人間の人格を壊して遊ぶために飼育する<友だち家畜>の状態にさせられた。
これが通常の市民生活であれば、菜保子さんの身にふりかかったような不幸は、起きようがない。
たしかに、世界中どこでも、学校は多かれ少なかれ閉鎖的な空間である。だが、日本の中学校ほど程度が極端に「多かれ」でなければ、菜保子さんが亡くなることはなかったはずだ。
たとえば、世界で普通にみられる習熟別クラス編成で、授業ごとに次々とクラスを移動するのであれば、A子たちのグループが行ったような囲い込みと<人間壊し遊び>は、やろうと思ってもできない。
このような遊びの行動プランは、被害者を逃げないようにできる密閉空間を必要条件とする。<人間壊し遊び>は、開かれた市民の生活空間では非現実的であり、頭の中の選択肢から消える。その結果、やろうとも思わなくなる。