いじめ自殺を隠蔽するとき、教育者が必ず口にする「異常な論理」

これを変えねば、いじめは消えない
内藤 朝雄 プロフィール

「異常な論理」が「あたりまえ」に…

なぜ、極端な集団主義で悪名高い異常な日本の学校を、せめて先進諸国グループの普通の学校程度に変えるぐらいのことを、誰も提案しないのか(いじめは世界中どこにでもあるが、追い詰められる程度が格段に違ってくる)。

それは、番組を制作する側も含めて多くの人びとが、異常な学校の「あたりまえ」を常識として疑うことなく信じ込んでいるからだ。

また、この番組をつくった人たちは、いじめの主役は加害者の群れであり、加害者を抑制しなければ意味がないことを理解していない。「気持ちを受け止める」相談のあと、あいかわらず加害者に痛めつけられて自殺するということは、いくらでもある。

加害者を制止するか、被害者の生活圏から排除することができなければ、相談など無意味なのだ。学校を、法によって個人が守られ、加害者との距離を自由に調節することができる市民的な生活空間にする以外に、有効な対策はない。

筆者は冒頭で、マス・メディアや政府、地方公共団体、学校関係者、教委、教育学者、評論家や芸能人たちが、でたらめな現状認識と対策をまきちらし、一般大衆がそれを信じてしまうと述べた。

この現状に対し、多くの人たちに次の寓話を読んでもらいたい。そして新聞・雑誌・テレビでいじめ対策を目にするたびに、思い出していただきたい。

ある国では、35歳から40歳までの人を強制的に収容所の監禁部屋に閉じこめて理想の共同生活をさせることにした。そのなかで、人びとは、狭い檻に閉じ込められたネズミのように、互いに痛めつけ合うようになった。人びとを監禁部屋に閉じこめること自体不当であり、収容所から開放するのが基本である。しかし、国は監禁部屋の生活を少しでも快適で健康的なものにしようと、壁紙を三日に一回変えたり、音楽を流したり、早寝・早起き・朝ご飯を推奨したりする工夫をし、それを国民にアピールした。国民はいつのまにか、監禁部屋に閉じこめること自体を問題にしなくなった。そして、監禁部屋で35歳から40歳までの人たちが、すこしでも「マシ」な生活になるような、些末で矮小な工夫がなされたことを、あたかも問題の解決に近づく努力であるかのように報道するようになった(拙稿「インターネットを用いたいじめや迫害をめぐる諸問題」加納寛子編著、内藤朝雄・西川純・藤川大祐著『ネットいじめの構造と対処』金子書房)。
 

マス・メディアや政府、地方公共団体、学校関係者、教委、教育学者、評論家や芸能人たちがやっているのは、こういうことだ。

マス・メディアの報道は、①世に影響を及ぼすと同時に、②一般大衆の思考や感情の習慣を示す指標になっている。

制作側は、一般大衆の思考や感情の習慣にあわせて番組をつくっていると考えられるからだ。

メディアの報道内容は、日本の市民社会がどのぐらい教育的な<別の現実>に侵食され、乗っ取られているかを如実に示す。

メディアと大衆のあいだには次のような悪循環が生じる。

メディアが大衆ウケするように企画を立てて、でたらめな教育論を流す→大衆のでたらめな「あたりまえ」が強化される→メディアはその「あたりまえ」にあわせて大衆ウケするように企画を立てて、でたらめな教育論を流す→大衆のでたらめな「あたりまえ」がさらに強固になる。

そしてメディアは、この悪循環のなかでつくられた企画どおりに発言する識者や芸能人を選択する。企画よりも水準が高い発言をする専門家は使われなくなる。