いじめ自殺を隠蔽するとき、教育者が必ず口にする「異常な論理」

これを変えねば、いじめは消えない
内藤 朝雄 プロフィール

「教育」なら何でも許されるのか

この穴がどれほどのものか、マス・メディアの報道スタイルから考えてみよう。

以下の思考実験が示すように、報道は、私たちの社会がどのような状態にあるかを示す指標として用いることができる。

もし、マス・メディアが先述のポアといういいわけを真実とみなし、「過度のポア」「行き過ぎたポア」と報道したとすれば、それは、私たちの社会がオウム真理教にひどく侵食されていることのサインであるといえる。

また、マス・メディアが暴力団による暴力犯罪を「過度の任侠」「行きすぎた任侠」と報道したとすれば、それは、私たちの社会が暴力団にひどく侵食されていることのサインになる。

もちろん、このような思考実験上のシナリオは、現実にはありえない。しかし、こと教育に関しては、このようなことは、あたりまえに起こっている。

NHKのドキュメンタリー番組『クローズアップ現代 なぜ続く〝いじめ自殺〟~こどもの命を救うために』(2017年7月18日放映)は、取手市教育委員会によるいじめ隠しを、背任行為ではなく、「過度な配慮」「行きすぎた配慮」と報道した。

 

このことは、上で述べた思考実験上のシナリオが実際に起こったと仮定した場合と同程度のひどさで、私たちの社会が教育に侵食され、市民の秩序が破壊されていることを示している。

このような、教育であれば何でも許されるタイプの報道は、これまでも繰りかえされてきた。「教育熱心のあまり」の「行きすぎた指導」と、あたりまえのように。

さらに教員による暴力犯罪は、「体罰」と呼ばれるので、被害者の方に何らかの「罰」を受けるにふさわしい落ち度があり、それに対して加害者が「教育熱心のあまりの行きすぎた指導」をしてしまったというストーリーで認識されるようになる。

そして、「先生がここまでやらざるを得なくなるぐらいなのだから、よほど困った生徒なのだろう」と暴力被害者の方に否定的な感情がむけられるようになる。

こうして「体罰」という誤称によって、教員からの暴力被害者は、レイプ被害者のように二重の被害をこうむることになる(ジャーナリストは、このような二次被害が生じるのを避けるため、教員による暴力犯罪に「体罰」という語を用いるのをやめなければならない)。

このようにメディア報道を指標として、私たちの社会が教育によって侵食され、市民の秩序が破壊されていることを見て取ることができる。

さらにこの『クローズアップ現代』の後半は、いじめの基本を外した相談系、受け止め系、教員の心がけ系の、無意味な対策の羅列である(上記NHKサイトを参照)。

無意味なことを、いじめ対策と称して意味ありげに並べ立てるのを見ると、そこまでして閉鎖空間に閉じこめて強制的にベタベタさせる特殊な学校制度を維持したいのかというのが正直な感想である。