いじめ自殺を隠蔽するとき、教育者が必ず口にする「異常な論理」

これを変えねば、いじめは消えない
内藤 朝雄 プロフィール

恐怖の「教育的ストーカー」論理

これまでの経緯を約すると、遺族は「あなたたち教委のことは信頼しない。もう関わり合いになりたくない。あなたたちは、私たちが虐待したから子どもが死んだというデマをまき散らして、いじめを隠蔽している」と訴えている。

これに対し、不正や加害をなしたと考えられる教委は責任をとろうとせず、「おれはおまえたち遺族との信頼を回復するぞ。教委(教育)への信頼を回復するのだ。おれはおまえたち遺族によりそうぞ」という内容の教育的ストーカー論理を、議会や記者会見で堂々と口にしているのである。

もちろん教委は、自己利益のために、遺族をどこまでも虫けらのように扱ってきた(教委が遺族をどのように扱ってきたかについては、前回前々回を参照されたい)。

報道をみるかぎり、教委は本物のストーカーとことなり、ほぼ100%損得勘定で動いていると考えられる。乾いた保身のために利用する教育の論理が、べとべと粘りつくストーカーの論理と同じ形をしているのだ。

この乾ききった保身の利害計算と、粘りつく教育的お涙頂戴芝居をつなぎ合わせるコンビネーションは、もはや教育関係者の職能にもなっている。

 

なぜ校長は泣くのか

取手市のケースとは別であるが、このことを示す一例をあげよう。

いじめ調査の第一人者ともいうべき探偵の阿部泰尚によれば、校長たちは、不都合なことを表沙汰にしないでほしい、責任をのがれたい、という意向を暗に伝えるための<芸>として泣くことが多いという。もちろん、泣いても不誠実であることは変わらない。

阿部は次のように述べる。

「それにしてもなぜ校長先生という人たちは、あんなにも頻繁に人前で泣き出すのだろう。私の経験から言うと、依頼者である親御さんにいじめの調査資料を突きつけられた段階で、4割ぐらいの校長が泣き出す。特に警察沙汰になりそうな事案では、泣き出すことが多い。

(略)彼らが本気で泣いているとは思えない。(略)ことを荒立てないで欲しい。(略)穏便に事が運ぶように計らって欲しい。それを暗に伝えるために泣いている。というか泣いて見せる。…。校長が泣いた後でも実際に何もしない学校が多い」(阿部泰尚『いじめと探偵』p.p.168-171)

私たちの社会では通常、正当性が問題となるやりとりにおいて、責任ある立場の者が不祥事に目をつぶってほしいと泣くことは、否定的に扱われる。場合によっては嘲笑のまとになりかねない。泣くことは利益にならないので、多くの人はやらない。

不祥事を表沙汰にしないでほしいときに校長が泣くことが驚くほど多いとすれば、それは功を奏する見込みが大きいからである。

すなわち、「ここは教育の場である」と感じられる状況では、通常の公共的秩序が崩れて、不祥事隠蔽のために泣くことが功を奏するような別のタイプの秩序にとって代わられているということである。校長はそこにつけこんで泣く。

ここで重要なことは、私たちの社会がどうなっているかということだ。

この社会は、教育に侵食され穴があいている。不祥事でも校長が泣けば許される穴。教育によって市民社会のルールと人権が否定される穴。教育であれば暴力や全体主義が許される穴。

この穴が広がるにつれて、社会が別のタイプの不健全な秩序に飲み込まれてしまう危険が大きくなる。