―久米さんが放送の世界に入ってから50年。著書の『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』では、これまでの歩みを率直に綴っています。
出版のお話をいただいた当初は、節目の50年だからといって、本を出すことにはそれほど前向きではありませんでした。ただ、担当していた番組がひとつ減り、時間ができたので書いてみました。
始めてみると、自分でも忘れていた記憶が蘇ってきたので、本書ではこれまで話したことのないことも書いています。
―もともとアナウンサー志望ではなかったとか。
学生時代は英語が得意だったので、将来は外国人観光客を案内する事業をやろうと思っていたんです。ところが4年生になると母が心配するものですから、安心させるために形だけでも就活しようと、たまたまアナウンサーを募集していたニッポン放送とTBSを受けたんです。
ニッポン放送は最終面接に遅刻して落ちましたが(笑)、なぜかTBSは採用してくれた。偶然アナウンサーになったようなものです。
―すんなり入社したものの、ほどなく病気を患ってしまいます。
入社して少し経ったある日、アナウンスブースに入って喋ろうとすると、全身から汗が噴き出し、恐怖心が襲ってきたんです。ストレスだと思うんですがその後も食べ物が喉を通らなくなり、栄養失調で結核になってしまった。無理をさせられないということで、会社では電話番をしていました。
―不遇な新人時代が、後の自分を形作ったと分析しています。
同僚のアナウンサーの番組を毎日聞いて、リポートを出すように求められたんです。それで真剣に聞いているうちに、自分なりの話し方を見つけなくちゃいけないと気づきました。
それまで、アナウンサーというのはトチらず、立て板に水のごとく話すものとされていました。でも、人間は詰まることも、考え込むこともある。そういう人間らしい話し方をしたいと考えるようになりました。
―その思いは、永六輔さんのラジオ番組『土曜ワイド』のリポーター時代に発揮されます。
「なんでも中継」という、これまで誰もラジオでしたことのない中継をするコーナーを担当しました。シンクロナイズドスイミングをしながら中継したり、山手線の一両を借り切って中継しながら一周したり。好きなように話せて、楽しかったです。
―第2章からはテレビのお話です。『ぴったし カン・カン』に出演し、一躍人気アナウンサーになります。
あの番組で学んだのは、「テレビは映っているだけでいい」ということ。アナウンサーというのは、カメラが向けられている間は話し続けなくちゃいけないという習性があります。
ところが、共演したコント55号の坂上二郎さんは、何も喋らず、ただ黙って映っているだけでも面白い。これはアナウンサーにない感覚でした。後年の僕は、あえて何も話さず、ニヤリとするだけということがありましたが、二郎さんに学んだやり方です。
―'78年には黒柳徹子さんとコンビを組んだ『ザ・ベストテン』がスタートします。
本書のタイトルにもつながりますが、僕は開始当初からベストテンは「情報番組」だと思っていたんです。あの頃、音楽番組に客観的で公明正大なランキングは存在しませんでしたから、「公正な順位」というのはすごく重要な情報だった。
あらかじめ黒柳さんと「生番組だから、世の中の出来事も話そう」と決めていて、実際にニュースを取り上げたこともあります。例えば、'83年の大韓航空機撃墜事件の際は、他のニュース番組に先駆けて報じました。