「日本の核武装論」飛びつくのも忌避するのも、いずれも安直すぎる

もうひとつの議論をしよう
櫻田 淳 プロフィール

現実的には核シェアリング

ところで、「日本の核」という政策選択に至る前に、前段として考慮すべき選択肢が多岐に渉って存在していることを、強調しておきたい。

日本は従来、安全保障政策上の「拘束衣」を幾重にも着た状態であった。日本の安全保障政策論議とは結局、この「拘束衣」を着続けるのか脱ぐのかという問いに絡むものであった。憲法第9条を最も下に着た厚い一枚として、そうした「拘束衣」を脱がない姿勢こそが、戦後の日本で「平和主義」と呼ばれたものの本質であったのである。

一昨年の安保法制策定によって、日本は、その「拘束衣」の厚い1枚を脱いだけれども、それでも他にいろいろと「拘束衣」を着ている事情は、変わらない。

 

この安全保障政策上の「拘束衣」を脱ぐ意味合いでは、ミサイル防衛網の整備、敵基地攻撃能力の保持、さらには交戦規程の策定に係る議論から、対GDP1パーセントに抑えられてきた安全保障関連費用の適正水準の議論に至るまで、以前から積み残しにされてきた議論を落着させる必要がある。

「日本の核」との関連では、非核3原則の是非や米国との「核シェアリング」(米国管理の核を両国の合意のもと日本が使用できる体制)の可否が議論されなければなるまい。少し前に、石破茂・自民党元幹事長が「非核3原則から『持ち込ませず』原則を抜いて非核2原則にせよ」と語ったのは、時宜を得たものであった。

筆者もまた、これまで、日本の「非核国家」としての立場と日米同盟の整合性を図るとするなら、論理的な帰結は、「非核3原則を非核2原則にする」政策選択に他ならないと唱えてきた。その方向で議論が進むことを期待している。

日本は何になろうとすべきなのか

加えて、日本が憲法第9条に象徴される「拘束衣」を1枚も2枚も脱いで、先々にフル・スペックの集団的自衛権を行使できる態勢を手にすれば、「自由、民主主義、人権、法の支配の擁護」を大義にして、日米同盟と北大西洋条約機構(NATO)を結合させるという政策展開を構想できるようになるであろう。

それは、日本が先々に憲法第9条に象徴される「拘束衣」を脱いだとしても、「自由、民主主義、人権、法の支配の擁護」や「国際協調主義」という「上着」を着続けなければならないということを意味している。過去4半世紀、模索されてきた「普通の国」としての日本とは、そうした「上着」を着て世界に関わるイメージに他ならなかったのである。

先に指摘したように、中露両国は、「日本の核」という政策選択には明らかな反発を示すであろうけれども、それ以上に「普通の国」として脱皮した日本の登場を歓迎しないであろう。

そうであるとすれば、「朝鮮半島の核」を見越して、そのことへの懸念を、特に中露両国に働きかける意味では、「日本の核」という政策選択以上に「普通の国」への脱皮こそが、日本の強烈な危機意識を裏付けることになるのではないだろうか。

今、「日本の核」を忌避する議論は、怠惰の誹りを免れないけれども、それに真っ先に飛びつく議論も、実に安易なものである。

外交や安全保障に係る議論では、囲碁にも似て盤面全体を見渡す感性が要請される。「朝鮮半島の核」を前にして、日本の人々は、「日本の核」に絡む議論を本格的に始めなければならないけれども、その議論に囚われるわけにもいかない。

「日本の核」に絡む議論が問い掛けるのは、日本の人々が安全保障を議論する際の「感性」といったものかもしれない。