(前回までの内容は、こちらから)
米国ジョージア州アトランタ郊外の田舎町。北朝鮮工作員たちも使う、あるスパイ技術をかつて実践した元スパイが、ここに住んでいる。彼の名は、ジャック・バースキー。現在は60代後半のバースキー氏は、訛りのない英語を話し、私を出迎えた。
彼は、KGBの元非公然工作員だ。東西冷戦下のニューヨークで、米国人「ジャック・バースキー」になりすまし、工作活動を行った。魅力的な笑顔を浮かべる男だが、時折、鋭い視線を私に送った。
1979年、29歳の時にニューヨークに送り込まれた。持たされたのは現金7000ドルと米国人の出生証明書のみ。本物の「ジャック・バースキー」は1955年に脳腫瘍で死んだ子供だった。ワシントンDCの在米ソ連大使館を拠点に活動していたKGB工作員が、その出生証明書を入手し、若きスパイにその身分を与えたのだ。
「私は受け取った出生証明書を使って、公的な身分証明書を入手していった。図書館のカードに始まり、運転免許、旅券、社会保障カード……。メッセンジャーのアルバイトをしながら、大学に入学、生命保険会社に就職した。誰にもKGB工作員だという正体を明かさずにね」(バースキー氏)
バースキー氏は故郷に妻子がいるにもかかわらず、ニューヨークでも結婚。子供をもうけた。はたから見れば、ごく普通のアメリカの若者と同じ生活を送っていたのだ。
このように、工作員が諜報対象国の国民になりすます手法を「背乗り」(はいのり)と呼ぶ。
世界の諜報機関の中でも、この手口を得意としたのが旧ソ連のKGB。それを取り入れたのが、北朝鮮の工作機関だった。冷戦下のKGBが狙ったのはアメリカやヨーロッパ諸国だが、北朝鮮の標的は日本と韓国だ。
そして、工作員たちはときに「妻子」さえも諜報活動をカモフラージュするための道具にする非情さを見せる。今回は、日本で実際に起きた北朝鮮工作員に関する事件とその「家族」の物語をご紹介しよう。
「明日、食事に来ませんか?」
都内のゴム靴製造会社でパートタイム勤務をしていたA子は同僚の男に声をかけた。
「松田忠雄」と名乗るその男は極めてまじめな、模範的社員だった。身長170センチでやや小太り。浅黒い肌で、ほほにそばかすがある。落ち着いた関西弁を喋り、周囲に安心感を与える男だった。
A子は、これをきっかけに松田と親しくなり、マンションで同棲を始める。実はA子は夫と死別した未亡人で、3人の子供を抱えていた。結婚こそしなかったが、「松田」は子供たちの良き父親になった。正月には和服を着て、A子と子供たちをつれて初詣に出かけた。がっちりした体に和服が似合った。
その、同じ頃――。
「私は北朝鮮にいる貴方の両親や兄弟をよく知っている。私の言うことを聞いたほうがいい」
大阪市内でスプリング製造会社を経営していた在日朝鮮人・金は、突然訪ねてきた「朴」と名乗る男にこう言われた。有無を言わせぬ口調だった。北朝鮮にいる家族の安全のためには、協力するしかない。