大隈重信に教わる「選挙に絶対勝つ方法」

ブラックボックスを壊した男
河合 敦 プロフィール

ただ、大隈重信が国民に人気を集めたのは、こうした派手なパフォーマンスのためだけではありません。その根底には、国民の求める政治に応えていたことがあります。

1885年に内閣制度ができてから大日本帝国憲法下では、天皇が首班を指名して組閣させていました。ただ実際は、国家の元勲(のちの元老)たちが推挙した人物をそのまま天皇が首相に任命していました。しかも、すべてが薩摩・長州出身者だったのです。いわば、密室ですべてが決まっていたというわけです。

その慣例が打破されたのは1898年――大隈重信が首相になったときでした。

大隈重信 Photo by GettyImages

進歩党を率いていた大隈ですが、伊藤博文内閣の増税案に反対、自由党と合流して衆議院で圧倒的多数をにぎる憲政党を組織し、これを否決したのです。

議会運営に困難を感じた伊藤は総辞職し、世論も大隈に期待したので、仕方なく元勲や天皇は、大隈に組閣させることにしたのです。佐賀藩出身者による日本初の政党内閣が誕生したのです。

ブラックボックスにあった首班指名でしたが、元勲たちも議会や世論を無視できなくなり、その意向をくむようになったわけです。

こうして大隈らの活躍で、多数党の党首が内閣を組織するという慣行は定着していきます。

 

この国の「倒閣の歴史」

しかし1912年、立憲政友会の第2次西園寺公望内閣は、陸軍が求める二個師団の増設を拒んだことで、山県有朋率いる陸軍閥の妨害にあい瓦解しました。次に内閣を組織したのが、山県の子分で藩閥の桂太郎だったので国民は激怒。倒閣運動(第一次護憲運)が広まり、桂内閣は50日余りで崩壊しました。

はじめて世論の力で、政権が倒れた瞬間といってもよいでしょう。

しかし次に誕生したのは、国民の期待とは裏腹に、またも閥族内閣でした。薩摩(海軍)閥のリーダー山本権兵衛に大命が降下されたのです。

しかも、そんな山本内閣に全面的に協力したのが、桂内閣打倒の中心となった立憲政友会(政党)だったのです。政友会は、共闘した立憲国民党と手を切って、山本内閣に何人もの閣僚を送りこみ、議会では全面的に閥族の山本内閣の支援に回ったのです。政権が欲しかったのでしょうが、権力の魅力とは恐ろしいものです。

振り返って今回の衆議院選挙、巷では「安倍一強政治の打破を叫んでいる希望の党が選挙後、首班指名のさい自民党非主流派に協力して新たな首相を選び出し、自民党と組んで巨大な保守政権を誕生させるのでは」と危惧する声もあります。

歴史をみれば、決してありえないことではないでしょう。

ともあれ、国民は政友会に大いに失望し、海軍の汚職事件(シーメンス事件)が明るみに出ると、倒閣運動が盛り上がり、耐えきれなくなった山本内閣は総辞職しました。

元老たちは衝撃を受けます。もはや閥族を首班とする内閣を、国民が許さないことを知ったからです。だからといって、護憲運動で閥族内閣を倒した立憲政友会には、まるごと政権を渡したくはありません。

そこで奇抜な案を思いついたのが、元老の一人、井上馨(長州閥)でした。井上はなんと、数年前に政界から引退した大隈重信を再び引き出そうとしたのです。

とにかく陽気で明るい大隈は、国民に絶大な人気がありました。そんな大隈を内閣のトップにすえ、「実質的に閥族内閣を存続させよう」と井上は考えついたのです。

こうして1914年3月、第2次大隈重信内閣が発足したものの、主な閣僚は、第3次桂太郎内閣と同じでした。つまりその実態は、頭をすげ替えただけの、閥族内閣でした。それなのに国民は、大隈内閣の誕生に熱狂します。ムードに流されやすい日本人の性格は、昔もいまも大差ないような気がしますね。