「マウントパンチ」誕生の瞬間を語ろう~朝日昇インタビュー

最強さんいらっしゃい【第6回】
細田 昌志 プロフィール

あの男のことを忘れてはいけない

──ええ、91年秋の足利工大附属高での地獄の合宿ですね。

朝日 あれ、佐山さんが怒っていることに何だかやたらエキセントリックになってるんですよね(笑)。ケツバットなどを正当化しませんし、やる必要も無いですが、当時の野球部なら、あんな練習は普通だった気がします(笑)。昔の野球部はあれくらい何も騒ぐことは無いのではないかと。そんな時代でしたしね。

──そうですか。でも、佐山さんも怒りのキャラ全開で、映像を見てても怖くなるんですけど。

朝日 趣味でスポーツをやる人でなく、選手として生きる人間に対してならば厳しくて当たり前ですよね。その選手のためにも。プロならより当然ですし、遊びではありませんから。繰り返しになりますが、野球部のケツバットなどの行為は絶対肯定しませんし、要りません。しかし、例えば、実際その頃木口道場にいたあるプロ選手は、練習は週2回来ればいい方で、来たとしても30分くらい運動すれば御の字というような按排でした。こんな奴が一応プロだそうですが、ふざけんなって(笑)。

──ほう。

朝日 当たり前ですが試合は腑抜けの内容で負けてばかり(笑)。今は修斗でエラそうな立場に就いているようですが、こんなふざけた奴がプロを名乗る方が間違えてますよね? プロやお客さんや全ての人に対する冒涜ですから。恐らく佐山さんはこういうナメた輩にカツを入れたんだと思います。僕は佐山さんに怒られたことはありません。もしかしたら「こいつはアタマがおかしいから、触れないようにしよう!」と思っていたのかもしれませんが(笑)。

──ぶははは! すでに奇人扱いされてたんですね。

朝日 ははは(笑)。でも、佐山さんは本当に凄い人だと思いました。よく「十年先を走っている」とか言うでしょう。十年先どころじゃないですよ。何か視点が違うんです。突破した人はこのような感覚なのかもしれないな、とよく感じました。突然の閃きには驚かされましたし、運動神経も力も凄まじい。

アスリート能力、思考回路が全く違う。だって考えてもみて下さい。タイガーマスクで大人気となって、とんでもない金額を稼げる未来をあっさり蹴って、何だか分からない競技を創るんですよ。それも手弁当で。

──そう聞くと改めてそう感じますね。

朝日 1995年に僕は「修斗プロデューサー」の肩書きをいただきましたが、その前後から、より佐山さんとより身近に接するようになったんです。

「“あさのぼり君”、痩せたいんだけど、何かいいのないかなあ?」「スキーウェア、いいじゃないですか!あれ、モコモコしてて痩せますよ!」「いいねえ、それ、買いに行こうよ!」「イヤですよ」「ねえ、行こうよ」「イヤですよ。」「何か買ってあげるからさあ!」と、僕の運転でスキーウェアを買いに行って、その後本当にスキーウェアを着てシャドーをする佐山さんを見て、「余計なことを言ってしまったかもしれない……」と思うようなこともよくありましたが(笑)。

──面白すぎ!

朝日 しかし、革命家ってこう言う人なんだろうなって思うんです。例えばチェ・ゲバラとかもこんな感じだったのかな?と。佐山さんは本当に変な欲なんて無い人でしたが、先を読む目や慧眼は本当に鋭かったですし。

──ちなみに『1984年のUWF』で佐山さんが新生UWFから誘われて、それを断ったとジム生に宣言するくだりがあるんですけど、朝日さんはご存知でしたか。

朝日 知らないです。本も読んでいないので分かりませんが、僕は聞いた事はありませんね。

──では、80年代後半というと新生UWFの人気が爆発していましたよね。当時のシューティングの選手たちは相当悔しい想いをしたと「格探」(カクタン=『わしら格闘技探検隊』というミニコミ誌)なんか読んで書いてあったんですが。

朝日 僕は特に興味が無かったですね。他の選手は知りませんが。僕はよそがどうしたとか、それで悔しい思いをしたとか、そういう考えをしたことは無かったです。単に自分の力不足なんですから、他がどうこうよりも自分自身に力を付けなくてはならない。

自分に本当の力がつけば、必ず時は来るし、そのためにも結果で証明するんだと考えていました。また、格闘技の世界に入ったときから、「何故、こんなにバラバラなんだろうか? 先ず一つでやらなきゃダメだよ」とずっと考えていて、格闘技の世界によく見られる小さなムラとムラの争いはくだらないと考えてもいたんです。だから、この世界は世間様から相手にされないんだよと。

──その後、新生UWFが分裂してリングスが立ち上がりますよね。そこから正道会館が参戦したり、朝日さんにとっては、タイガージムの先輩となる平直行さんがシュートボクシングを離れてまで参戦したりと、ちょっとしたブームとなります。それを当時は「ボーダーレスの時代」と呼んでいましたが。

朝日 僕らは相変わらずガラガラの中で試合していましたね(笑)。まあ自分はライト級王者になって、確かにチャンピオンになれたことは嬉しかったです。しかし、より責任が出てくるわけで、自分が修斗を引っ張って競技として熟成させ、より多くの人に理解してもらわねばならないと考えていたので、さほど喜びはありませんでしたね。チャンピオンの称号は一つの切符や通過点でしたから。

修斗は今よりもっと理解なんかされていませんでしたから、例えば「野球やサッカーに比べたらまだまだミジンコのようなレベルだし、世界には凄い人達が沢山いるんだ。こんなレベルじゃダメだ」といつも考えていたので、周りの選手についてもあまり興味はありませんでした。

──「ミジンコ」は、久しぶりに聞きました(笑)。

朝日 一時ルームメイトでもあった山田(山田学)がパンクラスに移籍しましたが、あの交渉を尾崎社長や、パンクラスのフロントの坂本さんとしたのは僕です。当初は山田が鈴木みのるさんと試合がしたいとのことだったので、佐山さんの許可のもと話をしていましたが、それがパンクラスに入るという方向になったんです。

──あ、そうだったんですか。

朝日 しかし、山田がプロ選手として食べられるのならば、それは嬉しいことですしね。とにかく、やれ「修斗が正しい」「パンクラスは正しくない」などと言う一部の人間しか興味の無いようなケツの穴の小さな争いなんかではなく、多くの人が歓喜するようなプロスポーツとなることを願い続けていたんです。

──なるほど。確かに黎明期ですから、そういう考えになるのも真っ当ですね。

朝日 その頃、僕はアマチュア大会の開催を提案し、佐山さんの許可を受けて開催をしたりしていました。成瀬にある町田体育館ならばレスリングマットがあるので木口先生にお願いして。だから第1回の全日本アマチュア修斗は町田で行いました。それで94年頃、「誰か修斗のフロントとして働いてくれる人はいないかなあ」って言う声を聞いたんです。

僕はそうした立場でやるようになっていましたし、小学生の頃は3~6年生まで毎年学級委員長に選出されたりしていて、下手すれば運動より得意だったので(笑)、一度選手を辞めて大宮に行きました。修斗を軌道に載せるために。単なるカンかもしれませんが自信もあったんです。「運動会を大きくしたバージョンやな」と言うような具合に考えていて。

──初期の修斗というと閉鎖された世界という感じがあって、僕なんかはそれが大好きでしたけど、それについてはどうお考えだったのでしょう?

朝日 もっと以前の僕は、まだ付いていくだけのところが大きい立場でしたから、特に個人の意見を言うことはありませんでした。繰り返しになりますが、とにかく自分の力を付けることが先決であると。周囲の格闘技が盛り上がっていても、自分が何も無い人間ならば何が起こって関係ないですよね? しかし、UFCが始まると少し風向きが変わったんですよね。そこにハワイアンの兄弟が現れて。

──もしかして!

朝日 イーゲンとエンセン(井上)です。僕がまだ木口にいた際に大宮に行くと、佐山さんから「キックと柔術をやってるって言うハワイの兄弟が来たんだけど、どうする?」と言われ、「入れちゃえばいいじゃないですか!」といつものように、明らかに何も考えていないような会話をしたのですが(笑)、確か翌週辺りに「中井がボコボコにされてたよ」と、佐山さんに言われたんです。

この時期にエンセンが修斗に来たのはたまたまだったのかもしれませんが、明らかに修斗が躍進することになった、大きなエポックメイキングです。あまりほかの人はこのことを語ろうとしませんし、エンセンもその後バカなことをしてしまったり、とあったから多少は致し方ない部分もあると思いますが、エンセンが来なかったら、歴史はまた違うものになっていたでしょうね。