2020年、格差拡大で「東京暴動」が起こるかもしれない

拭いきれない不安がつきまとう
川崎 大助 プロフィール

さらにスコッチ・アイリッシュは、その地をも離れて新大陸を目指す。18世紀のあいだに約30万人がアメリカに渡った。アイルランドでも食えなくなったからだ。しかし彼らは出遅れていた。アメリカとはそもそも清教徒が開闢(かいびゃく)し、WASP(註 ワスプ:White Anglo-Saxon Protestantの略)が支配を固めた地域であり、さらにアイルランド全体からも多くの移民が来ていたからだ。

このころのアメリカではアイルランド人は差別的に扱われることが多く、「白い奴隷」と呼ばれることすらあった。カトリック教徒が大多数だったからだ。このなかに混じって北部で働いたスコッチ・アイリッシュもいたのだが、南部の「山に向かった」者たちがいた。いや「山に向かうしかなかった」のかもしれない。

1900年頃のアイルランドの農民家族たち(Photo by gettyimages)

当時まだ人の手があまり入っていなかったその地域で、自給自足のコミュニティが形作られていった。ここが「ヒルビリーの故郷」となった。

つまり、歴史の彼方から「負け続けて」きたのがヒルビリーの先祖だった、とも言える。強者たちに翻弄され、歴史の荒波に押し流されていった先の、彼らのひとまずの安住の地がアパラチア山脈南部やオザーク山地だったのだ。

 

日本人は「勝ち負け」が苦手ではなかったか?

こうした歴史から僕が連想するのは、たとえば日本に現在住んで働いている、日系ブラジル人の人々だ。明治以降の官製移民とは、ほぼ「棄民」にも等しい政策だった、とよく言われる。

その子孫が、あからさまに差別的な待遇のもと、いまの日本社会のなかにかりそめの居場所を得ている状態と、山にまでたどり着いたスコッチ・アイリッシュたちとは、とてもよく似ている。

だが、いつ果てるともしれない「負け続ける」歴史のほうが、日本の「内地」の百姓層が置かれ続けていた状況よりも、数段マシだったのかもしれない。勝ち目など最初からない状況、いや本質的な意味では「競争」に参加すらさせてもらえなかったのが、百姓という「日本伝来のヒルビリー層」だったからだ。

第二次大戦は、たしかに「負け」た。経済戦争にも結局は「負け」て、稼いだものをすべて吐き出し中だ。だがしかし、明治以前の「百姓」に、勝つだの負けるだのといった考えかたは、そもそもあったのか? 

この連載で僕は、「負け犬」という言葉を使い続けてきた。しかし元来、この言葉はあまり日本人にはそぐわないと考える。「勝ち」や「負け」で白黒つけるよりも、「お互いさま」なんて考えることを好む人が多い、と思うからだ。これはひとつの「百姓の知恵」なのではなかったか。

僕が書く文脈での「勝ち」も「負け」も、じつはこれらは、アメリカの流儀に沿ったものだ。アメリカ社会の基礎的なメカニズムは、すべてが競争であり、戦いだ。だから『ドラゴンボール』の「天下一武道会」みたいなコンテストが、年がら年中、国中の至るところでおこなわれている。

競い合って「勝者」を決めるのだから、かならず敗者は出る。「勝者総取り(The winner takes all)」なら、たったひとりの勝利者以外の全員が「くたびれもうけ」の負け犬だ。これがエンターテイメントになると、一斉を風靡したオーディション番組『アメリカン・アイドル』みたいになる。

こんな形態での「勝負」も「競争」も、日本人は苦手なはずだ。学校の運動会で「参加者全員が手をつないで同時にゴールする徒競走」がある、なんて都市伝説(?)が広がるような国に、なんの競争もあるわけがない。言い換えると、フェアプレイ精神が育つはずもない。

ちなみに、運動会というものも日本にしかない風習だ。

泣けるイギリスのヒルビリー層

日本のヒルビリーは、これからどうなるのだろうか?

ひとつのヒントとなるのが、イギリスの例だ。驚くことはない、イギリスにも「ヒルビリーのような」層はいる。土地ごとの文化風土による影響、多少の変異はあろうとも、そこが資本主義社会であるならば、地球上のどこであろうと、科学的に、まったく同じことが段階的に順を追って起こる。アメリカで起こったことの「焼き直し」が起こる。

このことにイギリスで最初に気づいたのは、ザ・キンクスを率いるレイ・デイヴィスかもしれない。ビートルズにもローリング・ストーンズにもザ・フーにも水をあけられながら「イギリスの60年代が生んだ第4のバンド」として根強い支持を集めるキンクス。そんな彼らのアルバムに『マズウェル・ヒルビリーズ(Muswell Hillbillies)』(70年)と題された一枚がある。

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