ずんずん調べるコラムニスト・堀井憲一郎さんが、明治時代からの新聞を読むことで、この国の近代を生活者として追体験していく超大型連載がスタート! まるでその時代・その場所にいたかのように、歴史の教科書ではわからない「当時の空気」を描いていきます。
今回は前回に引き続き1888年(明治21年)の日本を体感してみよう。そこで流行っていたのは、ナント、決闘…!?
〔*前回はこちら gendai.ismedia.jp/articles/-/52957〕
さて、遊郭「洲崎」、「磐梯潰裂」のほかに明治21年の流行語としては「虐待」と「決闘」が挙げられる。
この二つは連関している。
まず虐待の問題が起こる。
1888年8月11日に「高島炭坑々夫虐待事件」という記事が載った。
「高島炭坑の坑夫虐待事件は、かねてより噂になっていたが、雑誌『日本人』の記者が、高島炭坑で働いていたという長崎の人の投稿をもとに、その虐待の実態を天下に訴えるの記事をのせ、当局も深く関心を持ち、調査に乗り出すようである」という内容である。
つまりまず雑誌『日本人』の告発があり、そこからマスコミも騒ぎ出し、政府も調査に乗り出したのだ。
8月23日、8月26日、8月29日と「坑夫虐待事件」の詳報が載る。かなり長い記事である。
もともと炭坑で働いていたのは、明治以前の場合はほとんど囚人であり、刑罰のひとつとして炭坑で働かされており、明治になっても「最劣等の労働者」を雇っていた。そのため、労働環境は劣悪であったし、それはたとえば命が粗末にされるというレベルの劣悪さである。
雑誌と新聞あげての坑夫虐待事件の告発が始まった。
8月いっぱいを掛けて「高島炭坑々夫虐待事件」についての告発が続く。
そして8月30日からこんどは別に「大阪府監獄の囚徒虐待事件」の報道が始まった。
大阪府監獄では、囚徒を虐遇し、重傷者を出している、という報道である。その話を聞いた府会議員らが詳しく調査しようとしたが、監獄が拒否した。それがため大きく問題になる。大きく紙面を割いて報道している。どうやら獄卒らによる囚人への暴力がやまず、怪我をさせたり、ときには死に至らしめたこともあったらしい。
ともに社会下層における管理者の暴力問題である。
同年11月30日にはこんどは「工女虐待」という記事があり、これは「今年は虐待事件の当たり年とでも申すべきか」という文章で始まり、紡績所の工場で働く女子が虐待の模様が報道されている。
「虐待事件の当たり年」という言葉もどうかとおもうが、たしかに明治21年はそういう年だったようである。身分制度がしっかりしていた時代には見えなかったところまで、明治20年代になってやっと可視化されはじめたのだ。