「20代で借金作って夜逃げ…一寸先は闇だった」ダイソー社長が告白

100均の帝王「小心者」の兵法
週刊現代 プロフィール

家もトラックも燃えたけど

――ここまで偉くなると、昔の苦労を忘れてふんぞり返る人もいますが、矢野社長は変わらない。矢野社長の口癖は今でも「すいません、すいません」。本当に珍しいタイプの社長だと思います。

お父さんは医者でいわゆるエリート家系なのに、なぜそこまで自虐的なのでしょうか。

「親が医者といえば裕福な家庭に育ったと思うかもしれませんが、親父は貧しい人からは治療費を取らなかったので、実家はものすごく貧乏でした。

兄貴たちは医学部に進学したので、母親からはよく『お前も医者になれ』と言われましたが、いまとなれば医者にならずによかったと思います。まあデキが悪かったので、医者にはなれなかったんですけど。

高校時代はボクシングに明け暮れて、五輪強化選手までいきましたが、勉強は本当にしなかった。

でも親父から大学にだけは行けと言われて、浪人の末、中央大学の二部(夜間)に入学。昼間は八百屋で毎日働きました。僕は『恵まれる不幸せ、恵まれない幸せ』という言葉が好きなんですが、家が貧乏だったからこそ、おカネの大切さに早くから気づくことができた」

 

――そうしてご自身で稼いだおカネで、学費もぜんぶ自分で出して、大学時代に結婚までされた。ただ、奥さんの実家の養殖業を継ぐために広島に戻ってからは大変だったそうですね。

「嫁さんの実家がフグやブリの養殖をやっていまして、それを継いだのですが、経費ばかりかかって……。気がついたら実の親や兄弟からの借金が700万円に膨れ上がっていた。

さらに義理の親父が、網を新調するために1000万円の借金をしてくれと頼んでくる。これはもう無理だと思って、家財道具をトラックに積んで、嫁さんと子供たちと一緒に夜逃げして、上京したんです。

東京に向かう道中は、明日からどうやって食っていくか、もう不安で不安で。このまま東京を通り過ぎて仙台か北海道にでも逃げようかと思っていました。

東京に行く途中で安い木賃宿に家族で泊まったとき、嫁さんが子供に『いい宿じゃないの』と言ってくれた。その言葉に救われました。

嫁さんは100均を始めてからも主婦目線で便利な調理用品などを開発し、会社を支えてくれた。あの嫁さんがいなければ、今のダイソーはなかったです」

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――東京では、図書月販という会社で百科事典を売っていたそうですね。

「条件がよかったのでやったのですが、ぜんぜんダメでした。この性格だから押しが弱くて、お客さんが迷惑そうな顔をすると、『すいません、また今度来ます』と言ってすぐ引き下がってしまう。

その点、100均は押しもセールストークも必要ない。魅力的な商品をたくさん並べればどんどん売れる」

――'72年にトラックで雑貨を移動販売する「矢野商店」を創業。最初はスーパーの店頭や公民館などでベニヤ板を広げて販売していたそうですが、このころも、相変わらず悲観的だったとか。

「こんな商売、長く続くはずがないと思っていました。女房と『年商1億円を目指して頑張ろう』と励まし合っていましたが、子供らには『悪いけど中学を出たらすぐ働いてくれ』とも言っていました。

それでも『日本一(商品数を)売るトラック』になろうと、他の店が300種類の商品を持ってくるなら、ウチは600種類持っていき、チラシも他の店の倍、刷りました。当時は手刷りなので手が疲れるんだけど、人よりしんどいことをするしかなかった。

ところが、せっかく商売が軌道に乗ってきた直後に、落とし穴が待っていた。火事に遭遇して、家も新調したトラックもぜんぶ燃えてしまったんです。放火でした。しかも保険をかけていなかったので、賠償金も一切出なかった。

予想もしないことで、一瞬にしてすべてを失って、人生は怖い、一寸先は闇だと学びました。それ以来、将来の不安とずっと向き合ってきました」