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この国から「中道政党」がはっきりと消え去った理由

選挙制度の重大な欠陥を問う

平成29年10月10日に第48回衆議院議員選挙が公示される。

森友・加計問題の疑惑から発したこの選挙、「国難選挙」と銘打つ安倍政権の主張に対し、「疑惑隠し選挙だ」との批判は大きい。とはいえ、自公政権に対抗する勢力が分裂を起こしている今、選挙後にこの疑惑を追及することはかなり難しくなりそうだ。

しかも下馬評どおりに、自民・公明と希望・維新の両連合の争いになるのであれば、そのどちらが勝っても保守政権が誕生し、しかも選挙後は協力して改憲を進めるようだから、どう展開しても疑惑はこのまま闇の中に消えるのだろう。政策の内容にも大きな変化が生じるわけではなさそうだ。

だが、安倍政権が勝っても負けても、私にはどうしても次のことが引っかかる。

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「卑怯な権力」をこのまま許して大丈夫か

まずこの選挙、そこに大義があるかどうかの前に、きわめて卑怯だということだ。

野党の足並みが揃わず、ぐらついている隙を突いて、「今なら勝てる」とふんでの選挙。そもそも「解散権は首相の専権事項」というが、そんなことはあるわけはなく、専門家の間でも今回の解散に対する「違憲性」が問題視されている。

もっともそれも、権力が過集中している今の政権に対して「違憲性」を問う硬派な司法はもはや存在しないから――そしてもしも選挙に負けても、勝った方が負けた相手の「違憲性」を問うこともないだろうから――事実上やった者勝ちの解散である。

だがこれは卑怯な手だ。そして政治において、権力にとって、「卑怯」であることは最も恥ずべきことであり、自らの存在そのものを否定する、絶対に避けるべきものであるはずである。

 

権力側が、自分の都合のよいように法を読み替え、ルールを勝手に決めることができるなら、こんなに恐ろしいことはない。

そもそもルーラー(支配者)とは、ルールを決めそれを人々に実行させる者のことである。その際、人々がルールに従うのは、ルールが公正で公平なものであるからに他ならない。

もし権力が自ら不公正で不公平な振る舞いをしたとしたら、ルールそのものが崩壊し、ルーラーの正統性は揺らぐことになる。不公正で不公平な権力とは腐敗した権力である。

それは社会の秩序を自ら壊し、統制を乱す、自己破壊的なプロセスを導くものとなるだろう。今回の選挙はおそらくそのように位置づけられる。要するに、してはならない「禁じ手」だったと、投票前のこの時点で言っておきたい。