白人至上主義者の暴動事件を、米メディアが報じ続けるその背景

シャーロッツビル事件の本質は何処へ…
寺田 悠馬 プロフィール

同じくリベラルなウェブメディアとして知られるスレイトは、銅像の「意味」の解釈にあたり、南部連合の指導者の子孫らを召喚している。大統領が言及した、ジャクソン将軍の玄孫にあたる人物たちによる公開状という体裁の記事は、南部連合に纏わる銅像が「人種差別と白人至上主義のあからさまな象徴」だと主張する。

公開状の筆者らが、ジャクソンとの血縁関係をして、なぜ銅像の「意味」に関する専門家たり得るのか定かではないが、そこに一定の特権的な権威を見出して、大統領への回答を正当化するスレイトの意図を読み取ることができる。

 

最後に、読者アンケートという形で大統領への回答を提出するのは、前述のニューヨーク・タイムスである。

どの銅像を撤去すべきか、という同紙の問いに対して、回答者の72%がリー像の撤去に賛成する一方で、ワシントン像の撤去に賛成するのは4%のみというアンケート結果が、「客観的データ」を装い、各所で繰り返し復唱されている。

同紙の読者層の偏りを鑑みれば、予定調和的に過ぎない退屈なデータを、律儀にも転載した読売新聞は、「銅像がどのようなメッセージを発し、どれだけの共感を得ているか」が重要だと書いている。

8月12日、極右集会に抗議する人たちの中に自動車が突入、1人が死亡19人が負傷した〔PHOTO〕gettyimages

大学教授や血縁者など「専門家」が召喚され、あるいは分布図やアンケート結果など「客観的データ」が参照され、過去に建てられた銅像の「意味」が精力的に論じられる一方で、シャーロッツビルの暴力という現在が、どんどん報道の表舞台から退いていく。

こうした舞台装置の入れ替えが、仮に大統領の老獪な戦略だとするなら、報道各社は図らずして、大統領の共犯者に仕立て上げられている。銅像を巡る、彼らの生真面目な報道が増殖すればするほど、それらが目の前の暴力を覆い隠す煙幕として機能するため、今や男たちが掲げたたいまつの炎さえ、朧げにしか見えないからだ。

以前この連載では、「フェイク・ニュース」の例を挙げて、トランプ大統領に反発する身振りを見せる報道機関が、じつは無自覚のうちに、大統領の戦略に加担してしまっている構造を検証した。同様に、2017年9月現在のシャーロッツビルの現実は、大統領とメディアの共犯関係によって、隠蔽されようとしているのだ。

芸術作品とファシズムとの不吉な親和性

大統領とて、まさかワシントンの銅像を本当に撤去する意図などなかったはずだが、彼の挑発は、なぜこれほど熱心な反応を招いたのか?

シャーロッツビルの一件において、大統領と報道機関の共犯関係による議論のすり替えを可能にしたのが、一体の芸術作品であったことに、我々は注目したい。

金属の塊を、特定の形状に造作したに過ぎない高さ8メートルほどの物体が、その「意味」を論じる人々を夢中にさせる一方で、極めて緊迫した社会的現実が、いつしか我々の視界から排除されてしまう構造。これは、ヴァルター・ベンヤミンが『複製技術時代の芸術作品』(1935年)で指摘した、芸術作品の「アウラ」の問題を想起させる。

宗教的な儀式に源を発する芸術作品は、人工物であるにもかかわらず、何やら神々しいアウラ(英語、日本語では「オーラ」)を纏ってしまう傾向がある。芸術作品を前にすると、我々はつい、そこに深い「意味」が隠されている気がして、これを解明しようと、作品の中へ中へと、思考を沈める。

この没入感は、より複雑で、とても解決することのできない現実社会の問題から、目をそらす口実として機能してしまうことがある。芸術作品の「意味」を論じることで、そのごく単一的な説話をして、社会の複雑性と不確実性とを、すっかり説明できた気がしてくるからだ。

実際、シャーロッツビルでは、芸術作品を巡る思考が、現実社会を巡る思考を代替し、ナチス党のスローガンを連呼する男たちの活動の結果、死者が出るという前世紀的な暴力が、しっかり直視されない現象が起きているのだ。

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