語り手の視点はどうやって養われるのか。芥川賞作家が考えた

滝口悠生の最新作『高架線』にちなんで
滝口 悠生

たとえば木の枝に止まっている鳥、あるいは春の桜の花とかでもよい。そういうものを見上げる時に、私たちは「高さ」を認識する。あるいは実際に、二階とか三階の窓やベランダから地面を見下ろす時、私たちは同時に地上から今いる場所を見上げる視線もきっと想像している。そこにもやはり「高さ」がある。そういう経験の蓄積が、高いところから自分を眺めるような、客観的な視線を生むのではないか。

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西武池袋線は、練馬のあたりで高架線になる。窓から外を見ていると、地上にあった視界が上昇し、家々を見下ろす高さになる。作品の冒頭にも書いたのだが、練馬あたりの高架線からの眺めはなかなかよい。家々の屋根が奥まで敷き詰めたように並び、その奥にとしまえん遊園地が見える。

その何がいいのか。海とか山とかが見える方がいいではないか。

 

そう言われると、そうかもしれないとも思う。その屋根のひとつひとつの下に人々の生活があって……みたいなことは言えるが、かつての自分は別にそういうことを考えていたわけではなく、ああ高くていい眺め、程度のことしか思っていなかったと思うが、その頃は先に書いたような、小説の語り手ってなんだ、みたいなことを考えながら、小説を書いたり、書きあぐねたりしていた時期でもあった。

それでなのか、小説の語り方について考える時、条件反射のように、まず窓から眺める練馬の遠景が頭に浮かぶ。ともかく「高さ」が何ものかであるという感じはずっと消えずにあり、今回の小説はその「高さ」から書きはじめたとも言える。

今は西武線を使うことも少なくなった。福島から出てきて東横線の沿線に住み、何度か転居しながらも東急線界隈を離れようとしない典型的な地方出身の東急線ユーザーである妻の人生に転がり込んで7年、私も今では立派な東急沿線住民となってしまったのだった。どこでも住めば都である。

ただ時々、渋谷駅などで副都心線から乗り入れてきた西武線の車両などに出くわすと、どこからともなく転向を責められるような視線を感じ、いたたまれなさとともにふと宙空を見遣ってしまう。それもあの語り手の視線だろうか。

読書人の雑誌「本」2017年10月号より