地下鉄サリン事件当日の自衛隊で垣間見た「北朝鮮テロ」への心構え

大混乱の市ヶ谷で学んだこと
伊藤 明弘 プロフィール

化学部隊は「赤信号」に阻まれた

袋を運び終えた隊員たちが、次に行ったのが、個人装備のチェックだった。

各人が、防毒マスクを着けてみたり、ゴム手袋の空気漏れチェックをしているのだが、見たところ、ゴム手袋の半数近くは空気漏れの状態のようだった。やはりゴムは劣化が早いためだろう。それを見て、連隊長はまた何事かを叫んでいた。

何とか装備を確認し終え、中庭に集合したのが、午後2時過ぎ。

その後の報道を見ると、この日、練馬駐屯地の第1師団化学防護小隊(当時)43名は、先発で霞が関駅に急行している。また、相馬原駐屯地の第12師団の一部16名も小伝馬町駅に直行していた。

私たちが当時、知り得たのは、大宮駐屯地の第101化学防護部隊(当時)76名と、残りの第12師団が、ここ市ヶ谷駐屯地に向かっているということだった。しかし、もう時刻は3時になろうとしていた。

隊員だけでなく、その場の全員がジリジリと待ち続けて、時計の針が3時を過ぎた頃、表からサイレンの音が聞こえてきた。第101化学防護部隊と第12師団がほぼ同時に市ヶ谷駐屯地の正門に入ってきたのだ。

先頭は警光灯(赤ライト)を点けた、警務隊の73式小型トラック。続いて化学防護車、大型トラックなどコンボイ軍団だ。

待ち受けていた32普通科部隊は、これらのトラックに溶剤や発電機、防毒マスク、コンプレッサー等、現場で必要となるであろうものを積み込んでいった。

 

私はその間に、ドライバーにいくつか質問をしてみた。

「大宮からここまで、なぜこんなに時間が掛かったのですか?」

「(赤信号)信号を守ってきた。後続車輌が離れないように気をつかったんだ。赤信号で列が切れないように……」

現在では、自衛隊の車両も「緊急車両」の扱いとなって赤信号も進入可能になった。だが、当時はいちいち信号を守って通行するしかなかったのだ。

さらに私は、ドライバーから逆にこんな質問を受けた。

「小伝馬町駅までの道を教えてくれ」

カーナビのない時代だった。だが、地図ぐらいは持っているだろうと言うと、「持っているのはこれだけだ」と、大きな関東地図1枚を見せてくれた。主要幹線道路は載っているが、細かい道までは描かれていない。

さらにドライバーは真顔で、「東京都心を走るのは初めてだ」という。都心でのテロを想定した訓練など、まだ行われていなかった。いや、むしろこの事件を契機に、そうした取り組みが行われるようになったと言っていい。

自衛隊が現在のようなテロ対処能力を獲得するまでには、こうした実際の経験を積み上げていくしかなかったのだということを、私は強調したい。

都心を知らないドライバーに、私はその場にいた通信局他社のカメラマンとともに、紙にペンで外堀通りや晴海通りの線を引いて、案内図を描いた記憶がある。