結局ハイデガーは『存在と時間』で何が言いたかったのか

哲学者がこっそり教えます
轟 孝夫

Q: あるものがそのものとして「ある」とは、そのものとわれわれとの関係性のうちでのみ成り立つ事態である、という感じでしょうか?

A: まあそんな感じです。何かが「ある」とは、それが単に目の前にあることではないんです。そうではなく、そのものにふさわしい態度を取ることによって、そのものが初めてそのものとして「ある」ことができるようになる。

つまり私がお茶碗を適切に使用することによって、初めてお茶碗はお茶碗として「存在」することになるわけです。お茶碗をお茶碗として使うことはとくに珍しいことではありません。しかしお茶碗を本当に「あらしめよう」と思えば、究極的には茶道になるかも知れない。つまり何かをそのものとして「あらしめる」には、われわれの側にもしかるべき修練が必要になるのです。

Q: ものの「存在」は、ただそれをボーッと見ているだけでは理解できないということですね。

A: そういうことです。さっき本来性について説明したところで、われわれは「自分だけの現実」という重荷を負わされていると言いました。具体的に言うと、われわれは自分とは異なる「存在」を負わされていて、それに対してしかるべき関係に入ることをつねに求められている。

 

本来性とはまさにそうした「負い目」を直視すること、他なるものの「存在」に対してしかるべき仕方で応答する「覚悟」を意味しているのです。

Q: 生きることがそれ自身、さまざまな他なるものの「存在」に対してよりよく応答すること、つまりそれを「あらしめる」ための終わりなき努力なのだというところは、日本人の「道」の考え方にも通じるところがありそうです。

A: その点は以前、このサイトに掲載された拙稿(「なぜ日本人はこんなにハイデガーが好きなのか、その「もや」を晴らす」)でも指摘しておきました。

Q: ハイデガーの非本来性と本来性の議論が、煩悩によって支配された「無明」の生と、それを脱した「悟り」という仏教の教えに似ている。そうした点も、日本人のハイデガー愛好の理由になっているのではないかという話でした。

A: ええ、さっきもお話ししたように、キリスト教の教えから「神」や「来世」といった超越的な要素を徹底してそぎ落としていった結果、もともとそうした超越的存在を認めない仏教に、構造的に近くなったのではないでしょうか。

Q: 「本来性」だ、「存在」だと言っても、突飛なこと、あるいは凡人には理解しがたい深遠な真理を論じているわけではなかったんですね。ハイデガーも日常に即した、われわれにも理解できそうな問題を取り上げていたんだということは、なんとなくわかった気がします。

でもそういえば、『存在と時間』というタイトルなのに「時間」についてはこれまでまったく話題になりませんでした・・・。

結局、哲学はなんのために在るのか

A: 実は『存在と時間』では、「時間」についてはちゃんと論じられていないんです。『存在と時間』は未完の著作で、「時間」を正面から取り上げることなく途絶しました。

Q: ハイデガーは結構いい加減な人で、『存在と時間』を刊行する数年前から論文を書く書くと言いながら、全然書けなくて、やっと本を出したらそれも尻切れトンボになってしまったのでした。

A: いい加減というか、大学でのポストを得るために何が何でも業績を出さなければならないという外的圧力と、最初にもお話しした、自分の問題にしている事柄をできるだけ厳密に語りたいということの間でつねに葛藤があったのでしょう。

『存在と時間』も最初の200ページ分を印刷した後、残りの原稿を書き換えたりしています。それで最初は一巻本のはずだったものが、分量が増えて上下二巻に分けることにした。しかも下巻は未完に終わって、「時間」についてはきちんと論じられずじまいになったんです。

ハイデガーの名誉のために言いますが、もちろん時間についての考察も様々な講義の中で行われています。そうした講義を参照すると、「時間」についてもさっきの「存在」と同様に、単に「今、目の前にある」、すなわち単に「現在」だけに関わるのではなく、「将来」へと「過去」へとの拡がりをもった現象であることを示そうとしていたことがわかります。