結局ハイデガーは『存在と時間』で何が言いたかったのか

哲学者がこっそり教えます
轟 孝夫

例えば何か困ったことがあるとき、ある人に相談して、その人から「こうしたら」とか「ああしたら」とアドバイスを受けることがありますよね。でも、結局のところ、やはりそれは「私自身」の問題であって、いかに親身に相談に乗ってくれたとしても、その人の問題ではないでしょう?

他人には、私が置かれているほんとう状況はわかりません。助言されたことをするかしないかも私次第、またその結果も私が引き受ける他はないですから。

Q: だったら単に「私」と言えばいいのではないでしょうか。

A: 「私」を他の人ではない「私」たらしめているのは何でしょう。自分固有の状況に直面して、その中で自分のあり方を選び取っていくこと、そしてその繰り返しが「私らしさ」を形作っていくのではないでしょうか。単に「私」と言うだけでは、あたかも「私」という実体がすでに存在しているかのようで、今述べた「プロセス」が抜け落ちてしまわないでしょうか?

ハイデガーは何よりも、われわれがそれぞれ自分固有の「現場」をもっている点を強調したかった。それで、「現」―存在と言うわけです。

実は研究者でもわからない「本来性」

Q: すでにかなり面倒な話になってきました(笑)。ただ、どうやらハイデガーの基本的なスタンスは非常に倫理的なんだということは、わかったような気がします。

「存在」とは何か、その定義が当初の問題だったはずなのに、ハイデガーが人間の、じゃなかった、現存在の「本来的な生き方」「非本来的な生き方」にこだわるのも、正しい「認識」は正しい生き方につながるものでなければならない、そう考えていたからだったのですね。

でもこの「本来性」「非本来性」という言い方も、一般的には非常に評判が悪いですよね。自分だけが真理を知っていて、無知な一般人に「本当のこと」を教えてやる、という、まさに知識人の典型的な「上から目線」。

A: いや、むしろ知識人の方が「本来性」とか「非本来性」と言うのを嫌がりますよ。リベラルな価値観からすると、「本来的な生き方」だとか「非本来的な生き方」といった「決めつけ」は他人の生き方への余計な介入になりますから。ハイデガーの専門家でも「本来性」をはずして解釈する人は多いんです。

Q: それは意外です。

A: 私も研究を始めた頃は「本来性」を真正面から論じるのはちょっと恥ずかしいなと思っていました。でも自分がなぜハイデガーに惹かれたのかをよく考えてみると、やはり世俗的な生きかたを徹底的に拒絶しているところと、それに代わる生き方が提示されているところにあったことは否定できません。それである時期からは臆面もなく「本来性」を取り上げる路線に転向しました(笑)。

 

Q: たしかに「非本来性」、つまり「ダス・マン」(ひと、世人<せじん>)を論じているところは、「ひとがそうしてるから」、「みんながそうしてるから」という大衆の右にならえ的なあり方をよく捉えているような気がします。でも、「死への先駆」とか「良心の呼び声」とかの議論が延々と続くと、もう、いったい何を言ってるのか・・・。

A: とにかく「本来性」というやつが理解しにくいんですよ。さっき研究者が「本来性」をあまり扱いたがらないと言いましたが、ハイデガーが語っている内容がよくわからないというのも、その理由のひとつなんです。わからないから無視しちゃおうと(笑)。

Q: やっぱりね(笑)。その「本来性」の議論にも絡んでくると思うのですが、本書ではハイデガーのスタンスを「宗教的」といいますか、キリスト教と結びつけた議論が目立ちます。

A: じつは『存在と時間』をよく注意して読んでみると、要所要所で、今論じていることはキリスト教の教えを背景としていますよ、という注記が挿入されていて、そこで参照せよと言われているものを調べてみると、もともと「本来性」には神に従った敬虔なあり方、「非本来性」には神に背いて「原罪」に囚われた生という原イメージがあったことがわかるんです。

『存在と時間』はそうした「宗教」の概念を使わないで、一人の人間としての「正しい」あり方がどのように捉えられるかを示そうとしたのだ、そう読むと、「本来性」も「非本来性」もすっきりわかるようになりました。