ネットメディアが「あの3月11日からの喪失」を描く意味

「新しい」とは何かを問い直す
石戸 諭 プロフィール

「見出し」は立たない。けれども

別の読者は、当時付き合っていた男性から「子供を産みたいなら、福島のものは食べないほうがいい」と善意から言われたことにショックを受けて、別れてしまった。彼女自身は首都圏に住んでいるが、福島県は大切な祖母が住む場所だった。

男性の言葉は、彼女にとって否定されたくない大事なことを否定されているように思えたのだ。周囲は福島に住む祖母を気遣ってか「(福島に住んでいて)大丈夫ですか?」と声をかけてくれる。

祖母はあの日から、確かに元気を失ってしまった。しかし、原発事故で避難が必要になったエリアに住んでいるわけではない。津波の被害が甚大だった沿岸部に住んでいるわけでもない。

大丈夫とも大丈夫じゃないとも言えないもどかしさがあり、やがて彼女も語れなくなっていく。

2人の感想で共通していたのが「気持ちが軽くなった」という言葉だった。

「自分は当事者でもないのに、あの日からのことを思っていいのか」という気持ちは、少なくない人が持っているように思える。私は文章のなかに、そんな「線引き」よりも、あなたにはあなたの「あの日から」があるということを大事にしてほしいというメッセージを込めていた。

私の狙いは、短い紙幅のニュースなら「見出しが立たない」、つまりニュースとは言えないものばかりだ。それでも、取材を終えて、書き始めながら、ここに「新しさ」があると思っていた。

どんな危機であっても、人は光を発して生きている。光は彼らの行動、そして語る言葉のなかにあって、簡単には古びない強さを持っている。

それを描くことこそ「が」インターネット時代のニュースだと言う気はまったくないが、彼らが発するものを感知して描くこと「も」ニュースであると強く思っている。

(本稿はすべて筆者の個人的見解であり、所属組織の見解とは無関係であることを明記しておく)