ネットメディアが「あの3月11日からの喪失」を描く意味

「新しい」とは何かを問い直す
石戸 諭 プロフィール

ある米農家の「喪失」

私は、書くにあたってこんな考え方をヒントにしていた。「『発光体は外部にあり、書き手はその光を感知するにすぎない』」を強く意識した文章——。

これは、沢木耕太郎さんが朝日新聞紙上に連載していたコラムを集めた『彼らの流儀』という本に記されていた言葉だ。

日本の新聞コラムにありがちな書き手による説教くさい訓話ではなく、市井の人々が織りなす生活の一場面を鮮やかに切り取った文章がそこにあった。

震災をテーマにしたもの、原発事故をテーマにしたものは書き手自身が「発光体」となっているものが多いと感じていた。書き手は怒り、真実を暴き、正義感や使命感を燃やす。そこで立ち現れるのは生き生きとした書き手の姿であって、未曾有の事態に直面した「人」の姿ではない。

あの日からの出来事が投げかけているのは「喪失」という問題である。喪失との向きあいかたは個人のものでしかない以上、書き手は主役ではなく、彼らの喪失を感知する存在にすぎない。

本の中身に触れておこう。こんな話を書いている。

福島県いわき市。福島第一原発の30キロ圏内に位置する土地に住む、ある米農家は、2011年秋にできた米を出荷することはできたが、自分の息子に食べさせることはできなかった。

この年、事故を起こした原発に最も近い土地で収穫された米である。放射性物質の数値的に問題がないことも、リスクが低いこともわかってはいたが、どうしても息子に食べさせるという決断ができず、自分たちが1年かけて食べる米240キロ分をすべて自宅の裏山に捨てた。

米農家なのに「科学的には安全である」ことをわかってもいるのに、人には食べさせることができるはずの米を、自分の子供だけには食べさせられないと捨てたのだ。

次の年こそは息子に食べさせる米を作ろうと彼は決意し、米農家としての生活を取り戻そうと奔走する。問われているのは「辛くて、もうダメだという状況をどうやって生きるのか。逃げるのか、知恵と行動で乗り越えるのかだ」と思いながら……。