民主「主義」という訳語が生んでしまった、日本人の決定的な勘違い
あなたを駆動する「物語」について①人のすべてのことは、文学だ
「歴史が物語をつくるのではない。物語が歴史を駆動するのだ」
こんな言葉を、アメリカ文学研究者の巽孝之の本に見つけた時、鳥肌が立つほどふるえたのをおぼえている。
それは氏が、アメリカを読み解くときに出した命題なのだが、アメリカのみならず、すべての社会にはこれが言える。
ほかならぬ日本の近現代も、まさにこんな時代であった。
これから、そんな話をしようと思う。
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その前に。
わたしはひとしきり叫びたいのだが、ゆるしてほしい。
人のすべてのことは、文学だと言っていいとおもう。
すべては小説なんだとか文学がいちばんえらいとか言いたいんじゃない。わたし自身、ものごとを順番に読むのが苦手で小説がうまく読めない(小説を描くことはあっても)。しかし「想像力」とは文学的なものだと、わたしは思う。
想像力とは、感情の産物だと思う。感情が動かなければ、人は何かに向かわない。その意味で文学を尊敬している。先人の感情や行動の集積がそこにある。
だから、きょうび政府にも軽視され弾圧さえされる文系学科であるが、それは文化の自殺である。
理系教育が悪いと言っているんじゃない。理系はうつくしい。数学は、物理は、うつくしい。宇宙の摂理を、数学という言語で表そうとしている、それが「理系」の骨子であると思う。
岡潔は、「数学とは何か?」ときかれて、「感情である」と答えた。それがうつくしく、わたしたちの感情を掻き立ててやまないからこそ理系はすばらしいのであって、それが「実学」だからではない。
数学者ほどこの世と離れた人種はいないと言ったのは誰だったか。物理学者だったが、自分には変人さが足りなかったために数学者になれなかった、と言っていた。
すぐれた数学者や物理学者には、必ず、詩人や文学者の友がいる。アインシュタインが特殊相対性理論を発見できたのは、自分が見た夢から物語を解く想像力があったからだ。
それを「文学的」と言ってみても、あながち間違ってはいないだろう。
だからわたしは、国も一度、文学的に、読んでみたいのである。