カープOB・安仁屋宗八、監督の「無茶ブリ」にキレて阪神へ

新日本野球紀行(3)
二宮 清純 プロフィール

――のちに監督になるジョー・ルーツがカープのコーチに就任するのが1974年です。このルーツに安仁屋さんは「ピッチングフォームを変えろ」と言われたそうですね。

安仁屋 キャンプ中に言われるのなら、まだいいですよ。僕が「スリークォーターからアンダースローに変えろ」と言われたのはオープン戦の時。しかもシーズンが始まる、わずか1週間前ですよ。

――いくら何でも、それは急過ぎますね。

安仁屋 だから僕は通訳を通して「ワシはやらん」とはっきり言いました。「じゃあ使わんぞ」と。こうなると売り言葉に買い言葉ですよ。この時の監督は森永勝也さん。「ルーツは監督じゃないんじゃけん」と言いましたよ。なかなか使ってもらえませんでしたね。しかし、なぜかルーツは力を持っていた。

 

――74年のシーズン、安仁屋さんは4勝4敗二セーブ、防御率3・96という成績に終わりました。防御率はこれまででワーストでした。そして翌75年、ルーツは監督に昇格します。

安仁屋 そりゃトレードに出されるでしょうねぇ。言うこと聞かんのやから。結局、阪神の若生智男さんとの間でトレードがまとまった。でも、実際のところ、僕は阪神に行く気はなかった。もう広島で野球はやめる気やったんです。

ところが広島でお世話になっている人に、「オマエ、1年くらい遊んでこいや」と言われた。「じゃあ、そうします」と。吉田義男さん(当時の阪神監督)は、僕がきてくれることを随分、喜んでくれたみたいです。

――結論から言いますと、阪神に移籍した75年、リリーフで66試合に登板し、12勝(5敗)7セーブ、防御率1・91で最優秀防御率とカムバック賞に輝き、オールスターゲームにも出場します。復活の理由は?

安仁屋 もう“絶対にカープを見返してやろう!”という一心で、オフに生まれて初めてトレーニングジムに通ったんです。これがよかった。それまではオフといえば遊んでばかりいましたから。

――当時の阪神の印象は?

安仁屋 もう無茶苦茶な球団じゃな、と思いましたよ。僕は単身で行ったものだから寮に入った。夜中に帰ってくると、食堂に茶碗が山盛りに並んでいる。翌日の朝の食事のために置いてある料理を、皆でたいらげているんです。こんなの、広島では考えられんことですよ。体調管理もへったくれもあったもんじゃない。本当にいい加減な球団だと呆れました。

――田淵幸一さんとのバッテリーはどうでしたか?

安仁屋 僕が復活できたのは、彼のおかげですよ。彼は随分、僕に気を遣ってくれました。“オレの言うとおりに投げろ”というタイプではなく、マウンドにきて僕の話を聞いてくれるんです。

「安仁屋さん、今日のブルペンではどのボールがよかったですか?」「今日は真っすぐがよかった」「じゃあ、真っすぐでストライクをとって、あとのボールは遊び球に使いましょう」とね。その意味では非常に組み立てのうまいキャッチャーでしたよ。

――安仁屋さんが阪神にトレードされた75年、カープは球団創設26年目にして初優勝を果たします。安仁屋さんがトレードされるのを待っていたようにして優勝したわけですから、内心、複雑だったのでは……。

安仁屋 先にも言ったように最初のうちは“見返してやる”という気持ちで投げていましたよ。でも途中から“古葉(竹識)さんで優勝するならええか”という気持ちに変わっていました。というのも古葉さんには入団した時からずっとかわいがってもらっていた。家に食事に呼ばれたりね。僕にとっては親代わりみたいなものだったんです。

(監督が)ルーツのまま(75年4月に辞任)だったら“こんちくしょう!”となっていたかもしれませんけどね(笑)。

読書人の雑誌「本」2017年8月号より