伊藤智仁、盛田幸妃…「伝説の投手」7人の人生

忘れられない男たちがいる
松永 多佳倫 プロフィール

1985年に猛虎打線爆発で日本一になった2年後の1987年から6位、6位、5位、6位、6位とほぼ最下位が指定席。連勝でもすると、デイリースポーツが「猛虎! 破竹の2連勝」と書いたほどだ。

田村勤

それが1992年シーズン、突如、阪神が優勝争いに加わり、阪神ファンは猛虎再来とばかりに狂喜乱舞した。その原動力となったのが、入団2年目の田村勤である。

しなる左腕から繰り出されるストレートは、上向きの弧を描くように打者の胸元へ突き刺さる。打者はただ息を潜んで見送るだけ。カクテル光線に照らされた球筋は白い閃光を放っていた。

ところが、この年のオールスター前に肘の痛みにより登録抹消となってしまう。実働3ヵ月でありながら、42試合登板、5勝1敗14セーブ、防御率1.10、投球回数41、奪三振53という脅威の数字を残す。

戦線離脱するまで6回終わった時点でリードしていた試合は20勝無敗1分。セ・リーグで逆転負けがないのは阪神だけであった。それでも、守護神不在の中、残り4試合でヤクルトと同率首位となり優勝に期待を膨らませたが、直接対決で負け、ヤクルトに優勝をさらわれた。阪神ファンは今でも言う。「田村がいたら絶対優勝しとったで!」と。

盛田幸妃、享年45

さて、これまで多くの野球選手に取材してきたが、決して忘れることのできない思い出を残してくれたのは、2015年、45歳で亡くなった盛田幸妃だ。

盛田幸妃

大洋時代は佐々木主浩とダブルストッパーとして一時代を築き、近鉄時代には脳梗塞からの奇跡の復活をはたしてセットアッパーとして優勝に導くなど、デビュー当時から花のあるプレーヤーだった。1998年の脳腫瘍発症から闘病生活は17年間に及んだが、最後まで持ち前の明るさを失うことはなかった。

会うといつも憎まれ口を叩かれた。この作品が単行本になってすぐの2013年、沖縄キャンプで解説者として取材に来ていた盛田と再会したときのこと。

「なんだよ、智(伊藤智仁)への思いばかりじゃねえかよ。俺じゃなかったの?」

 

明らかに不機嫌な顔を見せる盛田だったが、夜には飲みに誘われた。「まあ、お疲れさま」と乾杯し、2人してしこたま酒を飲んだ。

「お酒、そんなに飲んで大丈夫すか?」

「大丈夫大丈夫。薬みたいなものだから。それより、今度俺の本を書かない? どうせ50まで生きられないから死ぬまでの間のことを書けば売れると思うけどな。印税は半々にしよ」

自虐的なギャグで笑いを取り、いつもサービス精神旺盛だった盛田。だからこそ、突然、飛び込んで来た訃報に驚いたというか、悔やまれてならなかった。