2017.09.09
# ライフ

「沖縄が再び戦場となることを拒否する!」瀬長亀次郎、魂の誓い

【アメリカが最も恐れた男】最終回
佐古 忠彦 プロフィール

「お父さん、怖かったね」

亀次郎がなぜこれほどまでに民衆の支持を集めるのか、米軍はその理由がわかっていた。米軍の機密資料をみてみると、時間の経過とともに、亀次郎の「魅力」に触れる部分が増えている。亀次郎が市長在任中のヒル国務次官補は、後に大統領になるジョンソン上院議員(当時)への書簡で、

「瀬長は、ダイナミックで、多彩な個性を持った雄弁家」

と評した。それから11年が経った1968年11月のリーヒー沖縄総領事はオズボーン大使館首席公使に宛てた書簡で、

「瀬長亀次郎の勝利は、軍事占領に対する抵抗のシンボルとなった男の勝利といえます。われわれが殉教者を作り出してしまったことの証です。さらに庶民性を兼ね備えています。彼が有権者に語りかけるときは、方言を使い、内容はアメリカへの敵意に満ちているものの、とても機知に富み、他の共産主義者の候補のように退屈で陳腐な決まり文句は使いません」

と伝えた。また、1970年10月23日のランパート高等弁務官からスティルウェル軍事作戦担当陸軍参謀次長への「沖縄人民党」をテーマとする電信には、「才能あふれる指導部が、人民党の強みであり続けている」とあった。

 

「厳しい人でした。スパルタで」

次女・千尋にとって、父・亀次郎は、とても怖い存在だった。兄弟、姉妹が集まり、父の話になると、「お父さん、怖かったね」と言い合うという。

「強烈に怒られたことしか覚えてない。何で怒られたか、思い出してもわからないんだけど、父の日記を見ると、なぜ怒ったのか理由が書いてあったんです」

そんな怖い父には、家庭内でもう一つの顔があった。

「おーい! もっと洗うものないかー!」

瀬長家では、掃除、洗濯は亀次郎の“担当”だった。洗濯物を大きな金盥に入れて、手洗いする。大きなシーツは足で踏んで洗った。家族全員の洗濯物をこうして洗って、まだ洗剤があまってもったいないから、「洗うものないかー!」と訊くのだ。

1956年10月30日。市長選出馬直前に、自ら進んで洗濯する理由を日記に書いている。

〈5時起床、センタク。――この日程は刑ム所を出てからずっと続けられている。洗濯は刑ム所のならわしで、身についている。文は助かっているようだ。よごれものは一物も残さずザブザブ毎朝やっているのだから。

又彼女は店がいそがしいので洗濯物をおしつけるには気の毒である。もちろんそんな同情からきているのではなしに、自然におきるのだから手持ち無沙汰だから片っぱしからあらっているのである。感謝しなくてよろしい〉

亀次郎の妻・フミは小さな雑貨店を開業していた。店の切り盛り、市場からの仕入れや子育てなど多忙で、亀次郎は率先して家事をやっていたという。

関連記事