江戸時代、庶民の労働はこんなにブラックだった

「給料ナシで外出禁止」
河合 敦 プロフィール

江戸時代、定年は自分で決めた

意外に知られていないが、江戸時代にも定年制度はあった。年齢は決まっていないが、老化を感じると、家督を息子や婿にゆずって悠々自適の生活を送った。しかも、これは武士も商家も同様だった。

ただ、能力や事情があって引退できない人もいる。

たとえば、有能だった江戸町奉行の大岡越前は、七十五歳で亡くなるまで現役の寺社奉行を続けていたし、『養生訓』(健康指南書)を書いた福岡藩士の貝原益軒は、藩主や家中に朱子学を講じたり、『黒田家譜』の編纂したり、朝鮮通信使の接待、佐賀藩との国境問題の解決、藩政改革に奔走し、ようやく藩主から隠居を許されたのが、七十一歳のときのことだった。

しかしそれからも元気で執筆活動にいそしみ、七十四歳のとき『筑前続風土記』全三十巻を書き上げ、『大和本草』は八十歳、そして代表作の『養生訓』は八十四歳のときに完成させたものである。

蜀山人として狂歌で有名な大田南畝は、意外にも幕臣だった。ただ、文筆で名を成していることもあり、上司や同僚の妬みもあったのだろう、長年支配勘定の地位に据え置かれたままだった。

いまなら私のように独立してしまえばよいが、当時は文筆のみで生計を立てるのは難しく、南畝は職を続けるしかなかった。

還暦を過ぎ、息子の定吉は三十歳近くになっていたが頼りなく、なかなか引退できなかった。還暦には歯が五本しか残っていないほど老化が進んでいた。

 

六十四歳のとき、ようやく定吉の出仕が決まるが、まもなく精神に異常を来して免職となり、南畝は孫の鎌太郎が成人するまで隠居できなくなり、現役に終止符を打ったのは七十二歳のときだった。

いずれにしても、有能な人は昔も定年など関係なく、ばりばり働いていたのである。

近年は、定年の六十歳を過ぎて会社に嘱託などとして残る場合、給与は半減してしまうので、あえて職から離れてしまう中高年が多い。じつにもったいないことである。

いつまで仕事をするかというのは、それこそ本人の判断であり、個人の自由だと思う。思い切って江戸時代のように定年制度なんてなくしてしまい、能力があればいつまででも会社で働けるようにしたほうがよいのではないだろうか。

若者が少なく人手不足だといいながら、元気いっぱいで余命二十年以上もある中高年を活用しないのはまさに宝の持ち腐れというものだろう。