江戸時代、庶民の労働はこんなにブラックだった

「給料ナシで外出禁止」
河合 敦 プロフィール

あまりにもブラック

江戸の町はしょっちゅう大火があり、建物が多く焼失するので大工や左官など、職人が多かった。大工の多くは昼食をふくめて一日三度の休憩があり、それを差し引くと勤務時間はなんと四時間程度で済んだという。しかも腕のよい大工ならかなりの高給が与えられた。

そういった意味ではおいしい仕事だったが、いっぱしの大工になるには数年間、徒弟として親方のもとで無給のまま修行を積み、それからもしらばく下働きをさせられた。

独立するまでけっこう苦労しなくてならないし、腕が悪ければ仕事のお呼びはかからない。いまなら大半の若者はやめてしまう職種だろう。

もっとひどいのが江戸の大店(おおだな)だった。今で言えば大企業だが、当時は店の間口が10間を超えると一般に大店と呼ばれた。1間は約1.8mだから店の幅が18m以上ということになるだろう。

最近も富山県の某企業の社長が「富山県人は採用しない」と発言して問題になったが、江戸の大店の多くは、逆に経営者の出身地から少年を店員(丁稚)として連れてくるのが一般的であった。

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松坂出身の木綿問屋を経営する長谷川次郎兵衛もそうだった。松坂から十二、三歳の少年を丁稚として大量に雇用する方式をとった。

採用され店に入ったら四年間、彼らは丁稚としてこき使われる。長谷川家では丁稚を「子供衆」と呼び、雑務と使い走りのほか一年目は掃除、二年目は下駄と番傘の管理、三年目は店で使う諸道具の手入れと管理をさせた。用事のないときは、店先で行儀良く座っていなくてはならなかったという。

子供衆には衣服と食事は支給されるが、給金(給与)は一切出ない。また、食事といっても朝は冷や飯と味噌汁のみ。昼食と夜食はそれに一菜つくだけで、副食が少ない白米一辺倒の食事のせいで脚気(かっけ)になる子も多かった。

入浴に銭湯へ行く以外、外出も原則として認められなかった。今ならブラック企業としてすぐに告発される労働環境だ。

 

こうした厳しい勤務と慣れない集団生活のために、二年目には半分以上の子供が奉公の辛さに耐えかねて店をやめてしまったというのも、頷ける。

四年後、手代(店員)となるわけだが、一、二年間は見習いとして二才衆と称され、雑用にも使役された。同時に在庫管理も担当し、商品出入帳との齟齬があると帳尻があうまで寝ずに照合させられたので、蔵役時代に退職する者も多かった。五回門限を破ると、理由の有無にかかわらず解雇された。

就職して八年が過ぎると「初登り」といって、故郷での三カ月の休暇を与えられるが、この間、本店では勤務状況を精査し、将来性のない者や業績の悪い者は解雇を通達した。つまり、見習いの試用期間が八年もあるのと同じだ。

ちなみに「初登り」から六年後に「二度登り」、さらに六年後に「三度登り」があり、そこまで勤め上げる者は二十人に一人しかいなかった。いかに商人の道が厳しいかがわかる。だが長年勤め上げたらのれん分け(支店を出す)してもらったり、別家(分家)として本家の経営に参画できるようになった。

激務に耐えることができれば、最終的には富裕層に入れるチャンスもあったわけだ。