自分の思惑通りに妻が親の介護に「関わって」くれないことを、隠しておきたい息子介護者もいる。
ある息子介護者は、同居の母親を一人で介護していた。彼は結婚後しばらくしてから妻とともに実家に戻り、母親と同居を始めた。同じ家に暮らすことにした時点で、彼は、妻がいずれ親の介護にも「関わって」くれるものと思っていたようだ。
彼が自分の目論見違いに気づいたのは、母親が認知症になり、日常生活の世話が必要になってからだ。妻は「私には仕事があります」「自分の親もいます」「あなたの親を看るのは、あなたの仕事です」と、母親の介護には関わらないことを宣言したのだった。
「あなたの親なんだから」に返す言葉のなかった彼だが、それでも、「一つ屋根の下にいるんだから、それはないんじゃないか」「家族なのに、あまりにドライすぎるんじゃないのか」と、妻の態度に納得いかない様子だった。
私が奇妙なことに気づいたのは、彼にインタビューをした後のことだった。私は、彼の母親のかかりつけ医や利用しているデイサービスの職員など、彼と関わりをもつ人々とも話す機会があったのだが、その人々は皆、彼が独身だと思っているのだ。どうやら彼は、「僕は独りもんだから、自分で母を看ざるをえない」と言っているようだった。
もちろん、周りの人すべてに対して独身を装うことはできない。例えば、近所の人のように、彼が結婚していることを昔から知っている者もいる。それでも彼は、できる範囲で自分が結婚していることを隠しておきたかったのだ。
彼にとって「あの人、奥さんいるけど介護は自分でやっているんだね」と周りから見られることは、それほど耐え難いことだったのだろう。それに比べれば、「あの人、奥さんいないから自分で介護しているんだね」と思われるほうがまだマシだったのだ。
「非モテ」をめぐるおびただしい言説を見るまでもなく、異性のパートナーがいないことや結婚できないことに、負い目・引け目を感じる男性は少なくない。
だが、結婚しているのに独身を装う彼のような息子介護者が示唆するのは、少なくとも一部の男性にとって、妻がいるのに介護を「任せ」られないことは、パートナーがいないこと以上に「恥ずかしい」ことなのかもしれない、ということだ。
だが、そもそも男性が負い目・引け目を感じるのは、異性のパートナーがいないこと、それ自体なのだろうか。
独身を装っていた既婚の息子介護者たちから伺えるのは、男たちが本当に負い目・引け目を感じるのは、むしろ、自分の思い通りにケア労働を担ってくれる女性がいないこと、であるようにも思える。
そうだとすれば、男性にとって異性のパートナーとは、自分の思惑から外れることのない――その意味でコントロール=支配可能な――専属のケア労働者のことでしかない。
介護に関する本稿では深入りを避けるが、これはその他のケア労働、例えば育児にも当てはまるのではないか。
育児への非関与を続ける一部の男たちにとっては、子どもへのケアに携わること自体より、ケアをパートナーに「任せ」られないことがイヤなのではないか、ということだ。
自分の思惑通りに妻に育児を担わせられない姿、その意味で妻をコントロール=支配できていない姿をさらしたくない――とりわけ他の男たちの前では――という思いから、妻の「ワンオペ育児」状態を変えようとしない……そんな可能性はないだろうか。
男性がケア労働を担わない/担いたくないとしたら、それは、ケアが「女のしごと」だから、ではないのかもしれない。そうではなくて、ケアを「女のしごと」にし続けられないこと、つまり、ケアを女性に「押し付ける」ことができないというコントロール不全、いわば「支配の挫折」に耐えられないからだ、とはいえないだろうか。