「アメリカが最も恐れた男」として恐れられた瀬長亀次郎の生涯を、TBSキャスターの佐古忠彦氏が追うルポルタージュ。渋谷で公開中の佐古氏の初監督作品「米軍が最も恐れた男~その名はカメジロー」(http://www.kamejiro.ayapro.ne.
監獄から出所した亀次郎は、沖縄の祖国復帰への思いをより強くし、政治活動にこれまで以上に力を注ぐ。一方のアメリカは亀次郎への警戒心を強め、中傷ビラを撒き、さらには「水攻め」まで実行する――。(http://gendai.ismedia.jp/list/author/tadahikosako)
ようやくその日がやってきた。
1956年4月9日の、どんより曇った朝。
9時15分、刑務所の門が開くと同時に、大歓声が起きた。亀次郎の帰りを待つ人々が通りを埋め尽くしていた。
「平和への哲人」
「出獄歓迎」
「民族の父瀬長亀次郎歓迎」
などの横断幕、プラカードの数々。駆けつけた人たちと亀次郎が「ばんざーい!」「万歳」とくりかえした。
亀次郎が着ていた、真っ白なスーツとネクタイは、妻・フミが持参したものだ。
「みなさん、お出迎えありがとうございました。2年間このレンガ塀の中に押し込められていましたが、きょうようやく出所しました。今晩7時から県民の皆さまにご挨拶することになっています。祖国復帰のために今後とも闘いぬく決意に変わりないことをお伝えします」
そう出獄後の第一声をあげた。当時の写真を見ると、亀次郎に視線を送る全ての警官、刑務所の関係者の顔がほころんでいるように見える。
笑顔と大歓声に包まれ出獄した亀次郎は、そのまま、隣にある自宅へ向かった。通りには花道をつくるようにずらりと人々が待ち受けていた。当時、20人以上が行進するには届け出が必要だった。
「私について歩くと行進になるから動かないでください。僕が動きますから」
この日の記者会見で、亀次郎は、やはり祖国復帰を強調している。
「私が投獄された、唯一の理由は、祖国復帰運動を徹底的にやったことにある。しかし、私はどこまでも県民の皆さんとともに祖国復帰のためにやっていく決意を固めている。働く全県民のスローガンは民族の独立であり、これは沖縄の祖国復帰と結びついていることはいうまでもない。
もし祖国復帰を叫ぶことをやめて基地権力者に迎合するならば、自己栄達の道が開けるかもしれない。また、これ以上祖国復帰を叫ぶならば、再び監獄に入れられるかもしれないが、投獄もいとわない気持ちである」
その夜開かれた「瀬長亀次郎歓迎大会」には、市民1万人以上が集まった。
次女・千尋は言う。
「アメリカの失敗は、亀次郎を投獄したことだと思う。投獄すれば屈すると思っていたと思う。でもますますヒーローになって帰って来た。獄中死してもおかしくないような病気もしていたし、奇跡的に回復した。投獄したほうも、獄死してもいいくらいの気持ちで投獄していると思うので、そういう人が無事に出てきたのは、みなさん勇気が出たって言う。どんなに弾圧されてもがんばろうと、出獄がみんなに勇気を与えた」
1年半の獄中生活によって、亀次郎の影響力は削がれるどころか、むしろ、より大きくなった。米軍の目論見は外れた。
前出の仲松によると、当時、こんな合言葉があったという。
「瀬長は塩漬けにしても生きていなければならない」