ヨネクラジムが今年8月で、54年の歴史に幕を下ろすこととなった。東京新聞運動部の森合正範記者が、その閉鎖までを追うルポ。第三回目は、なぜヨネクラジムには後継者が現れなかったのか、なぜ米倉会長は後継者をつくろうとしなかったのか…ジム閉鎖に至る「最大の謎」に迫ります。
ボクシングの名門・ヨネクラジムの灯が消える。柴田国明、ガッツ石松、中島成雄、大橋秀行、川島郭志の5人の世界王者を輩出した老舗。8月いっぱいで54年の歴史に幕を閉じ、一つの時代が終わる。
ヨネクラには昭和の匂いがした。それは築48年、木造2階建てのジムのたたずまいを言っているのではない。今となっては時代錯誤と映るかもしれない、ジムの独自の方針と練習形態があるからだ
まずは選手育成への強いこだわり。とにかくプロボクサーを育てる、世界王者へと導く。それが唯一にして最大の目標だった。ジム創設から一度たりともぶれることのなかった芯のようなもの。
今の時代、ボクシングジムといえども、エクササイズや体力増進の会員が大勢を占め、それが大きな収入源になっている。プロ志望者は会員の1~2割というジムが多い。
しかし、ヨネクラには運動不足解消のために通う会員はほとんどいない。しかも男子ボクサーばかりの男の世界。気軽に入れる雰囲気ではない。敷居が高いのは古き良き時代のままだった。
もう一つはアマチュアで見られる全体練習。午後1時半開始から6時半開始まで4回に区切られ、開始時間に遅れたら練習に加わることはできない。次の全体練習のスタートまで待たなくてはならない。それがしきたりだった。
1966年に入門したガッツ石松は「当時からヨネクラは合同練習でね。他のジムでやっているところはなかったと思うなあ。でもね、そこで切磋琢磨があったんですよ」と回想する。
「5時の練習始めます!」。先導役の大きな声から始まり、「イチ・ニ・サン」とかけ声とともに準備体操をこなす。まるで部活動だ。それが終われば一斉に鏡に向かってシャドーボクシング、サンドバッグといった具合に約1時間半続く。午後8時半には明かりが消え、ジムは閉まる。
「選手育成」と「全体練習」。この二つは会長の米倉健司の決して譲ることのできない大きな柱だった。
1990年代半ばまで我が世の春を謳歌した。では、どこで歯車が狂ったのか。ジムの会費納入表によると、練習生は80年代半ばから増え続け、川島がホセ・ルイス・ブエノ(メキシコ)から世界王座を奪取した94年には241人となり、ピークを迎える。そこから毎年少しずつ減少していった。97年には200人を割り、2006年には100人を切った。
一方、全国に目を移すと、プロライセンスの受験者は2003年がピークの1602人。1994年が頂点のヨネクラの会員数と2003年が絶頂のボクシング人気。ここに約10年のズレがある。ヨネクラのジム生が減り始めたとき、ボクシングブームはこれからが本番だった。ヨネクラは大きな波に乗り遅れてしまった。
経営が傾きだし始めた約10年前のことだった。時代は変わり、会社帰りのサラリーマンが夜8時や9時からジムで汗を流すようになっていた。練習生は昼より、夜の方が集まりやすい。当時のマネジャーで現在もジム運営に携わる林隆治は米倉にいくつかの提案をした。
「僕は経営面や経理もやらせてもらっていた。だから女性専用のシャワー室を作ったり、夜に練習やりましょうよと言ったんです。そしたら会長は『そんなことやるくらいならオレは辞める、オレは選手育成だけをやりたい。そんなことで会員を増やしたくない』と言ったんです。会長はジムを大きくしようとか、営業努力をする気はなかったと思います」
それが経営者の方針。林は引き下がるしかなかった。