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日本人の「戦争反対」は、御霊信仰なのかもしれない

真夏に集中する戦争語りの意味
堀井 憲一郎 プロフィール

「戦争反対」=鎮魂のまじない?

「戦争反対」という言葉は、そのまま受け取ると、これから起こる戦争について語っていることになる。未来の話である。

未来に起こる戦争を阻止するつもりなら、感情を揺さぶる必要はない。できるかぎり論理的に、話者が代わろうと、言語が代わろうと伝わるように話したほうがいい。でもそうしていない。

つまり戦争被害を語る人たちは、未来ではなく、過去に向かって話しているのではないか。

そう考えるといろんな不思議な部分が理解できる。

彼らは、まったく納得できない死、非業の死を迎えた幾多の魂に向かって語りかけているのだ。

未来も大事であるが、非業の死に対する鎮魂もまた、生き残った者の責務である。

大空襲のさなか、隣にいた人が死ぬのと自分が死ぬことと、そこには何の差もなかった。偶然でしかない。その厳しい境目に立っていたことを、生き残って痛切に悟ったとき、死んだ人の無念さが、残された者を激しく襲う。

死んだ人の御霊(みたま)を慰めずして、生き続けることはむずかしい。

そのとき何か言葉を絞り出すとするなら、あなたの死は無駄ではない、けっしてもうあのときを同じ状況を繰り返さないから、という言葉しかない。意味はなく、実現する保証がないにしても、そう語りかける以外にどうしようもない。

 

南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、と唱えているときにその言葉の意味を深く投げかけているわけではないのと同じく、ただ語りかけることのみに意味がある。それを単簡に言ってしまうなら「戦争反対」となるのだろう。

鎮魂の言葉である。

かつての早良親王や菅原道真、また崇徳上皇ら、怨念を含んで死んだ人を慰めるための御霊信仰(ごりょうしんこう)と同じだ。

彼らの御霊を慰め、その安らかなることを願わなければ、いまの平穏が続かない。彼らが死に、自分が生き残ったその差にまったく理由はなく、ほんのたまたまだったことをおもえば、ひたすらその後世(ごせ)を弔うしかない。

靖国神社、2017年8月〔PHOTO〕gettyimages

ときまさに盂蘭盆会でもある。

終戦を迎えたのが盂蘭盆会のただ中だったため、昭和21年以降、戦争で死んだ人を弔うことと、先祖霊を迎える行事が混じり合い、手を合わせる日となった。夏のお盆、21世紀になってもなお多くの人が自分の生まれた場所へ帰る。追悼と鎮魂の時期になる。

戦争を忘れてはいけない、伝えなければいけないとマスコミが一斉に揃って唱えるのも、この時期に限られている。

御霊の祭りと、鎮魂と、追憶と追悼のために、この時期がふさわしいのだろう。