国語の大学入試問題が、来年からトンデモないことになる予感

「駐車場の契約書」!?これでいいのか
伊藤 氏貴 プロフィール

「国語」の行方

「読む」ことの意味や「国語」のありかたがこうした方向へ変化していくこと自体が悪いというわけではない。実際、モデル問題には出題意図や採点基準などきわめて詳細な解説が付されており、それを読めば非常に考え抜かれた問題であることがわかる。

たとえば、モデル問題例1では、父と娘の会話から、2人の議論の対立点がどこにあるのかを探る設問があり、モデル問題例2では、契約書をよく読むことで、貸主の一方的な賃料値上げ要求にどう対抗するかを考える設問がある。どちらも論理的思考を必要とするし、実際に生活の場ですぐにも役立つような内容だと言える。

 

地図も読めず、電化製品のマニュアルを読むくらいなら哲学書の方がまだましだと思え、保険や不動産も専門家の言いなりになるばかりの私のような人間こそ、まずこういう勉強をすべきなのかもしれない。

しかし、疑問もある。まず、果たしてこれは大学入試で問うべきことなのか、ということだ。議論にも契約にも、生産的であるため、騙されないための論理性が必要なのは言うまでもない。でもそれは、大学に行かない人には必要ではないのか。普通に生きていれば誰だって議論する場面や契約を結ぶ場面と無縁ではいられない。

しかも、この2つのモデル問題例にかぎって言えば、内容のレベルは決して高くない。むしろ今や進学率が97%に達する高校の入試でこそこのようなことを問うべきではないか。

photo by iStock

また、もう1つは、こうした生きていくための情報処理を扱うのが高校の「国語」という科目なのだろうか、という疑問である。

もちろん、ことばの扱いに関わるものである以上、全く無縁ということはないだろう。その点、「国語」が実質的にその扱う文章の内容から「道徳」の時間になっているという批判を考えてもよい。

「道徳」の教科化には大きな問題があるだろうが、少なくとも「国語」と「道徳」が意識されないまま同化してしまうことに対する1つの歯止めにはなりうる。同様に、こうした情報処理は、一種の生活の技術として別科目を立てることも考えるべきではないか。

このことには、先述のとおり、指導法や指導要領の変化の他の要因も大きく絡んでくるし、センター後継の新テストが全体としてどのようなかたちになるのかは11月にならないと示されず、今後どうなっていくのか、まだ正確な見通しは立たない。

しかし、「国語」の単位数に限りがある以上、新しい入試に合わせてこれまでの教材が減るだろうことは間違いない。今度こそ「文豪が消える」ことが現実になる。その未来を見据えつつ、今後起こるだろう大変革に関して注意喚起を促す第一報としたい。

漱石文学初心者もファンも楽しめる、歿後100年に読みたい一冊。文庫書き下ろし。