日本の学校は地獄か…いじめ自殺で市教委がとった残酷すぎる言動

茨城県取手市・中3女子自殺事件【前編】
内藤 朝雄 プロフィール

なぜ加害者を非難できないか

報道では、いじめ加害者の責任を問うという声もない。

というのは、次のような、はっきり言葉にならないタブー感覚がただよっているからだ。それを露骨な言葉にしてみよう。するとこうなる。

たとえ法が責任能力を認める年齢(刑法では14歳以上、民法ではさらに幅が広い)であっても、中学生や高校生は人間であるまえに〈教育のもの〉であるから、それを頭越しに、法や正義や人間の尊厳にもとづいて本人の責任を問うことは望ましくない。

生徒はあくまでも教育の論理で扱うべき。学校に外の社会の価値観を入れることは、教育の敗北であり、なによりも神聖な教育に対する冒涜である。

このように、法や正義や人権よりも教育が上位の価値であるかのような感覚が、知らず知らずのうちに世に蔓延している。だから人間の尊厳を踏みにじって笑っている加害者をおおやけに非難することができない。

そのかわりテレビや新聞は、教育委員会の隠蔽体質を集中的に報道する。

 

これは、生徒を狭い人間関係に縛りつけて逃げられないようにする学校制度の問題、そして加害者の責任を、おおっぴらに報道できないことからくる八つ当たりではないだろうか。     

学校は変わっていない。学校と教育にかんする私たちの先入観も変わっていない。こうして学校では、人が人をおそれ、人が人をいためつける集団生活の地獄が、いつまでも続く。

ひどいことがいつまでも続くのは、人がそれをあたりまえと思うからだ。それがあたりまえでなくなると、問題がはっきり見えてくる。逆にあたりまえであるうちは、どんなひどいことも「ひどい」と感じられない。

学校や教育の世界を、なにか聖なる区域のようなものとして扱い、それをあたりまえと思う私たちの習慣が、学校の残酷、理不尽、そして教育関係者の腐敗を支えている。

私たちは、この「あたりまえ」を、もういちど考え直す必要がある。教育という阿片に侵食された、思考の習慣を改めてはどうだろうか。

多くの人が学校がらみ、教育がらみの「あたりまえ」をあたりまえと思わなくなることによって、事態が改善し、不幸なできごとを減らすことができるからだ。