沖縄を熱狂させた、瀬長亀次郎「魂の演説」を聴け

【ルポ・アメリカが最も恐れた男】②
佐古 忠彦 プロフィール

「ワシントンだって動かせます!」

裸電球が一つつるされ、演台の上にはやかん。これが亀次郎の演説のスタイルである。「神様」の演説は、聴いた者の心をつかんで離さなかった。

いまに語り継がれる名演説、名フレーズがある。終戦から5年後の1950年、群島知事(奄美、宮古、八重山諸島などの自治政府)選挙に出馬、首里中学校の校庭での立会演説会に臨んだ。

亀次郎は、団結して声を上げることの大切さを訴えた。

「この瀬長ひとりが叫んだならば、50メートル先まで聞こえます。

ここに集まった人々が声をそろえて叫んだならば、

全那覇市民にまで聞こえます。

沖縄70万県民が声をそろえて叫んだならば、

太平洋の荒波を超えてワシントン政府を動かすことができます」

この演説会で司会をしていた仲松庸全の耳には、いまも鳴り止まない拍手の音が残っている。

「指笛を鳴らして、拍手が収まらない。司会者の私も、次の弁士を紹介しなければならないのに、長い時間がかかるんです」

 

仲松も、亀次郎の言葉の魅力を語る。

「戦争が終わって、無の中から焦土の中で生活を始めて、アメリカのちょっとの配給では食べていけない。アメリカのやり方にも不満がある。みんなこぼすことはこぼすけど、大きな声で訴えるのは瀬長さんが初めてでした。それまで誰も口にしなかった基地撤去とか、米軍は土地代を支払えとか、そういう要求を高く掲げて演説したんです。すごい迫力でした」

首里周辺の道路は、あちこちに停められた車で全く動きが取れなくなるほどで、4万人が中学校の校庭を埋め尽くした。

元知事の稲嶺惠一も、亀次郎の演説を追いかけていた一人だ。当時高校生だった稲嶺にとっても、亀次郎は「希望」だった。

知事時代は、いつも苦虫を噛み潰したような表情をしているイメージだったが、筆者が久しぶりに会った稲嶺は、ニコニコしてとても元気そうだった。知事時代は、基地問題に悩み、毎日泡盛を飲まないと、眠ることができなかったという。

群島知事選挙が行われた1950年、稲嶺は高校2年生だった。

「大衆的なおじさん、沖縄のおじさんといった感じだったですねえ。親しみやすいんです」

亀次郎は、タレント、芸能人のような存在だったという。

「演説の日は、早い時間から、むしろをもって、仲間と一番前に席を取って聞いていましたね。何時間も前から座り込んでね。強烈にアメリカをたたくでしょ、気持ちを代弁していってくれるし、為政者をやっつけてくれる。若い青年にとっては憧れの人でした。非常に痛快で、演説が終ると、みんなニコニコして帰っていきましたよ。

いまでこそ、権力者に対しても言いたいことが言えるけど、米国の統治下はそうではないんですね。はっきりいうことは相当勇気が要ることで、いつ投獄されるかわからない。その中で言ったということが評価されたんじゃないでしょうか」