病気って何?「大人の精神科医」が発達障害の概念を受け入れるまで

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堀 有伸 プロフィール

「発達障害」の観点が、問題解決につながる

ここまで紹介したような批判を読む限り、「発達障害」の診断はもっと慎重に行うべきではないだろうか、という気持ちになってくる。

実際に少し前までは、「社会と個人の相互作用によって発達する人間関係にまつわる情緒の問題(ナルシシズムの成熟不全など)を、全て先天的、もしくは発達早期の脳や神経の身体的な原因に帰着させる発達障害の議論は、非常によろしくない」と考えていたのが、私の本音であった。

そのような見方が変わってきたのは、実際に「発達障害」の臨床の場面で、良質の治療実践を行ってきた医師・福祉や療養の関係者・教師、母親などの保護者、そして当事者である本人に触れる機会が増えたからだ。

まだ腹の底は見えないものの、とりあえず現状でお会いする製薬会社の方々も、安易な薬の処方だけでは弊害が大きく、適切な心理的かつ社会的な介入を行うことが重要であることを伝えてくれている。

こんなことは考えられないだろうか。

つい20~30年くらい前であるならば、落ち着いて授業を聞かない生徒に対しては、教師が体罰等を行使して従わせることも、ある程度は黙認されていた。しかし、昨今の社会情勢の中で、そのような強権的な振る舞いを行う権威は、教師たちには認められなくなった。

当然、純粋に授業の面白さだけで生徒たちをひきつけねばならなくなったが、必ずしも毎回、それがうまくいくわけではない。そもそも、子どもたちの規則的な生活習慣も以前より乱れており、授業に集中するための体力も低下してきている。当然、まじめに授業を聞かない子も増えただろう。

 

ここで、教師が強権的な授業運営を行うことを許容する議論が強まってほしいとは思わない。

このような場面で、「発達障害」の観点が、問題解決のために関係者が共有できる視点を提供し始めている。

たとえば、発達障害の臨床では、患児の知能検査の結果が重視される。単純に知能指数がいくつかという数字にのみ着目するのではなく、「知的能力のうち、どのような領域が得意であり、どのような領域が不得意であるのか」という評価を行った上で、本人が理解できるような伝え方を工夫するという方向性が強まっている。

決して、安易に「本人が病気だから、伝わらないのは仕方がない」という結論にはならないし、患児や保護者の弱点について、道徳的な観点からの批判を行うことは避けられている。

発達障害については、二次障害と呼ばれる問題を予防することが、大変に重要な目的とされている。対人関係や社会的な場への参入の仕方に問題がある個人の場合には、人と接した経験がトラウマ的なものになりやすい。

そのことがさらに人と接する状況での振る舞いを不器用にさせ、それがさらに失敗を誘発し、社会的な場からますます遠ざかるようになる。そのような悪循環が高じて、何年も満足の行く社会的な関係を持てないまま生きていかざるをえない人々も、世の中には一定数存在しているのである。

その場合には、良質な愛着を他人との間に育むことが困難になっていくし、その結果としてさまざまな情緒的な問題や行動上の異常が出現しやすくなる。そのような状況にある多くの人々が、現在も放置されているおそれがある。

ひょっとしたら、その個人の問題を説明できるのは「発達障害」の理論だけではないかもしれない。しかし、関係者の多くが共有可能で、現在も学問的な検証が続けられている「発達障害」の説明を採用することには、実践的な魅力がある。