日本人は戦争をどのように「消費」してきたか〜注目すべきある変化

72年間の「ポケットの中の戦争」
貞包 英之 プロフィール

ゴジラとガンダム――戦争に対する縛り

戦記マンガだけではない。戦争や国家に対する同様の批判は、より広く戦後サブ・カルチャーのなかで確認される。

時代は少し遡るが、たとえば『ゴジラ』(1954)で注目されるのは、それを倒すのが、一民間人、それもおそらく先の戦争で傷つき世捨て人のようになった科学者、芹沢博士だったことである。「防衛隊」と呼ばれる国家所属の軍隊はあくまで脇役に留まり、ゴジラを倒すことはできない。

〔PHOTO〕iStock

この構図は後のシリーズにも受け継がれる。自衛隊を模した軍隊は、ゴジラや他の怪獣を退治できず、怪獣同士の戦いを見守る傍観者となる。それは安保の傘の下で日本に自己防御する力がないことの反映でもあるが、先の大戦以来身に染みる国家への不信と、それに頼らないという倫理的な意志を大衆的規模で表現していたともいえる。

さらに70年代なかば以降、戦争表現の主戦場は、よりスケール大きく、また派手に戦いを描くアニメに引き継がれるが、それでも戦争に対する縛りは継続された。

たとえば『機動戦士ガンダム』(1979)は、ジオン公国と地球連邦という二勢力の争いを描きつつ、どちらも絶対的な正義としなかったことで、その後の戦争アニメの原型になった。

国家の正義なき争いと、戦う理由が見いだせないまま戦争に巻き込まれる少年少女たちの内向的な悩みや葛藤、恐れや不安を同等の比重で対置させることで、戦争表現にこれまでにない奥行きと重層性を加えたのである。

 

テロリストの孤独

こうして戦記マンガが引いた道筋を辿り、「戦争」やそれを導く「国家」を否定する戦いを主題化するねじれた表現が定着していく。

ただし一方で見逃せないのが、このねじれを継承しつつも、近年新たな展開が戦争表現にみられることである。

たしかに戦争やそれを指揮する国家に対する不信は、今なお根深い。『艦隊これくしょん-艦これ-』(2013~)や『ガールズ&パンツァー』(2012~13)のようにかつての艦隊や戦車をもてはやす作品においてさえ、国家は姿を現さないか、その関わりが曖昧なままに隠されている。

しかし興味深いのは、たんに国家の否定で終わるのではなく、国家否定が行くつく先で近年、新たなかたちの「戦い」が描かれ始めていることである。

端的にいえば、戦争を描くアニメやマンガが、「テロリスト」、またはそれを取り締まる者たちの物語へと比重を移していることが気にかかる。国と国との争いを俯瞰して描き、だからこそ正義の相対性に行き着くのではなく、あらかじめ国家を否定し反抗する孤独な「テロリスト」とそれを取り締まる集団との物語を描くこと。

それはもはや「戦争」とさえいえない。戦争があくまで国家同士の相互的な政治行為の一種とすれば、ここでの戦闘は、国家の枠を離れむしろそれを脅かす者と、取り締まる者のいわば「私闘」に変貌しているためである。

そのことは、たとえばガンダムシリーズによく示される。富野由悠季の手を離れ、近年では次の世代がガンダムを素材に新たな物語を語り始めているが、そのなかで主人公たちは「テロリスト」的立場に立たされることが多い。

『新機動戦記ガンダムW』(1995~96)、『機動戦士ガンダムSEED (destiny)』(2002~06)、『機動戦士ガンダム00』(2007~09)、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』(2015~17)などで主人公たちは、逆説的にも平和を追求するため、または仲間のため、国家を源泉としない「正義」を追求していくのである。

ゴジラの変貌も、こうした揺らぎのなかで捉えられる。最新の『シン・ゴジラ』(2016)でゴジラはしばしば「原発」の比喩とみなされるが、より端的にはそれは東京を脅かすテロリストとして現れる。

目的が分からないまま都市を破壊する一匹の「修羅」。他方、それに対する人びとも、国家を乗っ取り、無力化することで、初めてゴジラを鎮圧する。

『シン・ゴジラ』では少壮政治家が、合法的にだが民主的にではなく総理大臣亡きあとの政府を動かすことで、ゴジラを活動停止に追い込むのである。