かつて政府は、空襲から身を守るため丈夫な防空壕を建設せよと指示していた(1940年12月24日・内務省「防空壕構築指導要領」)。
ところが、防空法改正により避難禁止と消火義務が定められると方針転換する。1941年10月1日に内務省は「国民防空訓」を発表し、家庭用の防空壕は作らないよう指示。新聞は「勝手に防空壕を掘るな」「避難、退去は一切許さぬ」と報じた。
さらに1942年7月3日の内務省通達「防空待避施設指導要領」は、丈夫な防空壕は不要、床下を掘るだけでよい、焼夷弾が落下したらすぐ飛び出して消火せよ、名称は「待避所」とする、と明確な方針を打ち出した。退避ではなく待避、逃げ場所ではなく出動拠点なのである。
1942年8月に内務省が発表した手引き「防空待避所の作り方」は、待避所は家の中に作った方が「自家に落下する焼夷弾がよく分かり、応急消火のための出動も容易である」と述べ、床下への設置を奨励。これでは頭上の猛火に向けて床下から這い上がることは不可能である。実際に多くの人が床下で命を落とした。
いかに「逃げるな、火を消せ」と命令されても、空襲の恐怖が広まれば逃避者が続出する。そこで政府は2つの情報隠蔽をおこなった。
その第一は、空襲の危険性や焼夷弾の威力の隠蔽である。政府はアメリカ製焼夷弾を不時着機から押収して爆発実験を行い、威力を確認した(1943年2月14日)。
政府広報に載った写真からは猛烈な破壊力が一目瞭然である。だが公式発表は「2分で消火できた」という。
あっという間に家屋が全焼した事実を隠して、「旺盛な防空精神をもって、身を挺して国土を守り抜くといふ伝統の魂」によって消火できたと発表した(「週報」1943年3月24日号)。消火の技術論は皆無で、ただの精神論でしかない。
第二は、実際に起きた空襲被害の隠蔽である。国防保安法や軍機保護法により、空襲の被害状況を話すことは処罰対象となった。報道も規制された。敵国のスパイに知られるのを防止するためというのである。
しかし敵国は自分たちが行った空襲を知っているのだから、今さら隠すのは不可解だ。政府の狙いは、敗色濃厚であることを隠して「この戦争は正しい」、「日本は神の国だから必ず勝つ」と言い続けること。そのために、スパイではなく国民が真実を知ることを恐れたのだ。
終戦まで、空襲被害は軽微だ、敵機を多数撃墜した、という大本営発表が流された。