# 戦争 # 零戦

真珠湾攻撃「不時着したゼロ戦」が辿った哀しき運命

「ニイハウ島事件」をご存知ですか
将口 泰浩 プロフィール

捕虜にして米軍に引き渡そうとする島民と、戦陣訓の教え通り、捕虜になるくらいなら自殺も辞さない態度の西開地との狭間に立ち、原田は苦悩した。だが、いつしか「何としてでも書類を奪還する」という西開地の側に立つようになっていた。

12月13日朝、島民の隙をつき、原田が西開地を救助する。だが島から逃れるすべもなく、2人は怒った島民たちに襲撃される。戦いの末、西開地は暴行を受けて無残に殺害され、状況を悲観した原田も散弾銃で自殺した。

日系人収容所が生まれる契機に

事件後、米国市民権を持っていた妻・梅乃は「傷ついた者を救助するのは当然の行為」と主張するも、国家反逆罪で逮捕、収監される。収容所を出たのは31カ月後の昭和19年11月だった。

開戦直後に起こったニイハウ島事件は2つのことを米国民に強く印象付けることになった。一つは日本兵が捕虜になることを命を賭けても拒否すること。これを、事件を通して米軍は初めて認識したとされる。

戦陣訓の「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」の一節が骨の髄まで染み込んでいることを目の当たりにしたのだった。

もう一つは日系人への不信感だった。島民と友好関係にあった日系人2人が突如として現れた日本兵の味方をし、島民と対立したことに衝撃を受けたのだ。

そしてこの事件が生んだ不信感が、戦後米国内でも有事における人種差別の現れとして反省されることになる、日系人収容所設営の契機になったといわれる。

 

1942年1月26日、C・Bボールドウィン海軍中将は「反米傾向を全く見せていなかった2人の日系人が日本軍によるニイハウ島占領の可能性があるとわかると、日本兵を援助する行動に出た。これは米国に忠誠を誓っているようにみえる日系人たちが日本軍の攻撃がさらに成功するようであれば日本軍を援助する可能性を示す」と事件を報告した。

歴史家ゴードン・プランゲも「事件は日系人はたとえ米国市民でも信用されず、日本側に寝返るかもしれないとの印象を与えた」と述べている。

同年2月19日、米国は、西海岸に住む約12万人の日系人と日本人を、強制的に砂漠に移住させる大統領行政命令第9066号を発令する。

日系人収容所日系人収容所内で食糧配給の列に並ぶ人々(Photo by Getty Images)

事件のあったハワイでは、当時15万7000人の日系人と日本人が居住していたが、1444人が抑留され、そのうちの981人が米本土の収容所に移されることとなった。