昭和天皇は、本当はどの時点で「終戦」を意識していたのか

「独白録」「実録」から聖断を再考する
栗原 俊雄 プロフィール

「一撃講和論」という陥穽

天皇はこれを退けた。すなわち、

〈今一度戦果を挙げなければ粛軍の実現は困難である旨の御感想を漏らされる。〉

この部分には『実録』の編集意図がすけてみえる。

そのまま読めば、天皇は単に陸軍の人事断行を拒否した、ととれる。しかし『独白録』には「近衛は極端な悲観論で、戦を直ぐ止めた方が良いと云ふ意見を述べた。私は陸海軍が沖縄決戦に乗り気だから、今戦を止めるのは適当でないと答へた」とある。

確認しておくべきは、天皇が近衛による提案・即時停戦を拒否した、ということである。

天皇が言うのはいわゆる「一撃講和論」だ。劣勢は承知しながら、どこかで連合国軍に打撃を与えて、その戦果を持って和平に持ち込む、という構想だ。

 

この構想に従って沖縄戦が行われた。一撃どころか、沖縄では県民を巻き込んだ地上戦となり被害を拡散させてしまったことは、歴史が証明している。その後米軍に占領され今日に至るまでの基地問題を内包させてしまったことも、「一撃講和論」による負の遺産だ。

貴族政治家が何を言おうが言うまいが、マリアナが落ちた時点で敗戦は必至だった。この時点で戦争の終結に進むべきだったのだ。

「聖断」を下した本当の意図

さて前述のごとく8月10日、日本政府は「聖断」によって「ポツダム宣言」受諾を決めた。これを受けて12日、昭和天皇は皇族を招いて受諾を伝えた。『実録』をみよう。

〈午後三時二十分、御文庫附属室に宣仁親王・崇仁親王・恒憲王・邦壽王・朝融王・守正王・春仁王・鳩彦王・稔彦王・盛厚王・恒德王・李王垠・李鍵公をお召しになり、現下の情況、並びに去る十日の御前会議の最後に自らポツダム宣言受諾の決心を下したこと、及びその理由につき御説明になる。守正王は皇族を代表し、一致協力して聖旨を補翼し奉るべき旨を奉答する。終わって、一同と茶菓を共にされ、種々御会話になる〉

『実録』には、この席で交わされた肉声が記されていない。しかし『独白録』にはある。

「十二日、皇族の参集を求め私の意見を述べて大体賛成を得たが、最も強硬論者である朝香宮が、講和は賛成だが、国体護持が出来なければ、戦争を継続するか[と]質問したから、私は勿論だと答へた」

戦争を続けたら被害はさらに拡大する。天皇はその可能性を理解していた。だからこそ、「宣言」の受諾を決断したのだ。それでも「国体護持」が保障されない限り戦争を続けるという。『独白録』を信じる限り、それが天皇の意思表示だった。

天皇としてはもはや停戦の意志は固かったが、あくまで強硬派の皇族をなだめ停戦への流れを加速させるために「国体護持」優先を語った可能性もある。どう解釈するかはみる者の歴史観と知識次第ではあるが、いずれにしてもこの発言を記憶した上で、「聖断」の意味を考えるべきではある。

1945年8月の「聖断」によって、最悪の事態を回避できた。他方で「聖断」に至るまでに被害をもっと少なくできたのではないか、という疑問も残る。

「結果が分かった現在の立場で、当時の為政者たちの判断を云々すべきではない」というむきもあるだろう。しかし筆者はそう思わない。そういう我々も、我々が選挙で選んだ為政者がミスをして国益を大きく損なったとしたら、後世の人たちから、「あの時代の有権者はダメだったな」と批判されるだろう。

歴史は常に「後出しじゃんけん」で判断されるものだ。そうすることによって、現代人は過去から学ぶことができるのだから。