昭和天皇は、本当はどの時点で「終戦」を意識していたのか

「独白録」「実録」から聖断を再考する
栗原 俊雄 プロフィール

仮定に仮定を重ねた終戦構想

『実録』は2014年9月9日、宮内庁が公表した。24年余、2億3000万円の巨費(人件費を除く。1年平均26人の職員が作業)を投じて作られた、国家の正史だ。1万2000ページ超、和綴じ本で61冊の大長編で、波乱に富む天皇の生涯を記している。

大長編の『実録』の中でも、二度目の「聖断」はハイライトシーンの一つだ。御前会議の開始から終了までの1時間を描くために、実に47もの典拠を記している。

「聖断」史観、すなわち「昭和天皇の英断で戦争が終わった。天皇は日本をぎりぎりのところで救った」という解釈の源泉がここにある。この場面だけをみれば、正しい解釈と言えるだろう。ただ、現代史の理解を深めるためには、他にも知っておいた方がいいことがある。

 

たとえば、そもそも天皇を初めとする為政者たちはどうやって戦争を終わらせるつもりだったのか、ということだ。

開戦1カ月半前の1941年11月15日、大本営政府連絡会議で戦争終結構想が決まった。

主な内容は、

⑴南方作戦で戦略的自給圏を確保する

⑵中国の蒋介石政権への圧力を強める

⑶独伊と連携しイギリスを屈服させる

⑷それによってアメリカの戦意を失わせ、講和にもちこむ

というものだった。

注目すべきは⑶と⑷だ。ドイツとイタリアがイギリスを屈服させる保障はなかった。かりにそれが実現したとしても、アメリカが戦意を失う保障もなかった。つまり大日本帝国は、仮定の上に空想を載せた蜃気楼のような終戦構想で、戦争を始めたのである。

ちなみに、同日付の『実録』には、この終戦構想の記載はない。実録は、膨大な費用と労力をかけているだけに、歴史研究の基礎史料となるものだ。しかし客観的な記述を心がけたせいか、天皇のナマな感情を伝える発言をそぎ落としている。また上記の蜃気楼的戦争終結構想のように極めて重要な事実を記さない、などの問題点もある。

「国史」としての『実録』のこうした性格は、稿を改めて考えたいと思う。

敗戦を悟りながら、止められなかった

さて、天皇はいつ終戦を意識したのだろうか。『実録』にはない記述が、『昭和天皇独白録』(文春文庫)にある。もとは天皇の側近、寺崎英成が残した記録だ。1990年に存在が分かり、発表された。

天皇の肉声を生々しく伝える史料である。それによると、天皇は1943年9月の時点で、すでに勝てないことを悟り、講和を意識していたことが分かる。すなわち、

〈私に[は]ニューギニアのスタンレー山脉を突破されてから[十八年九月]勝利の見込みを失った。一度何所かで敵を叩いて速やかに講和の機会を得たいと思つた〉

どうしてこの時点で停戦協定を始めなかったのか。その後の原爆投下やシベリア抑留などによる被害拡大を知る私たちとしては、それを知りたいところだ。以下の独白は、そうした疑問に対する答えになるだろうか。

〈独乙との単独不講和の確約があるので国際信義上、独乙より先きには和を議し度くない。それで独乙が敗れてくれゝばいゝと思つた程である〉

実際の敗戦より2年近くも前、昭和天皇が勝てないことを悟り、「講和」の必要性を認識していたことを、確認しておこう。同盟国のドイツが「国際信義」などおかまいなしに、日本に先んじて降伏したこととあわせて。

このころ日本政府は停戦どころか、反転攻勢に力を入れていた。しかし連合軍に押しまくられ、1944年7月には「絶対国防圏」の一角であるマリアナ諸島、サイパンなどを米軍に占領された。米軍がここに戦略爆撃機B29を展開したことで、日本本土爆撃が必至になった。空襲によって敗戦までにおよそ50万人が殺されたとされる。

年が明けて1945年2月14日、近衛文麿元首相が天皇に上奏した。『実録』でみてみよう。

〈戦局ノ見透シニツキ考フルニ、最悪ナル事態ハ遺憾ナガラ最早必至ナリト存ゼラル。以下前提ノ下ニ申上グ。最悪ナル事態ニ立至ルコトハ我国体ノ一大瑕瑾タルベキモ、英米ノ輿論ハ今日迄ノ所未ダ国体ノ変更ト迄ハ進ミ居ラズ(勿論一部ニハ過激論アリ。又、将来如何ニ変化スルヤハ測断シ難シ。)

随ッテ最悪ナル事態丈ナレバ国体上ハサマデ憂フル要ナシト存ズ。国体護持ノ立場ヨリ最モ憂フベキハ、最悪ナル事態ヨリモ之ニ伴フテ起ルコトアルベキ共産革命ナリ。

ツラツラ思フニ我国内外ノ情勢ハ今ヤ共産革命ニ向ッテ急速ニ進行シツツアリト存ズ〉

貴族政治家の上奏は長々と続くが、ここでは割愛する。

もっとも重要なのは、

「最悪なる事態」=敗戦は避けられない。「国体」を守るために停戦の手を打つべき、という提案である。そのために陸軍内部の人事刷新(「粛軍」)が必要と訴えた。