昭和天皇は、本当はどの時点で「終戦」を意識していたのか

「独白録」「実録」から聖断を再考する
栗原 俊雄 プロフィール

二度にわたる御前会議

仲介役をしてくれるはずのソ連が強盗だったことが分かった日本の為政者たちは、ようやく終戦に向けて本格的に動き出した。

軍部は「宣言」を受け入れる条件として、

○「国体」護持

○連合国軍による占領の拒否

○撤兵と武装解除は自主的に行うこと

○戦争責任者の処分は日本側がすること

を挙げた。しかし東郷茂徳外相は、「国体護持」以外の条件を付けることに反対した。

9日午後2時半に閣議が始まり長々と続いたが、結論は出ない。午後10時、鈴木貫太郎首相は上奏するため休憩を宣言した。天皇に議論の現状を伝え、判断=「聖断」を仰ぐ、という判断だった。「聖断」実現のために鈴木は根回しをしていたとみられる。

このため8月11日午前零時3分、御文庫附属室で最高戦争指導会議が開かれ天皇が臨席した。「御前会議」だ。

 

出席者は最高戦争指導会議の6構成員である鈴木首相、米内光政海相、阿南陸相・東郷外相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長と幹事役の吉積正雄陸軍省軍務局長、保科善四郎海軍省軍務局長、池田純久綜合計画局長官、迫水久常内閣書記官長。また平沼騏一郎枢密院議長が参加し、さらに蓮沼蕃侍従武官長が陪席した。

東郷案と、三条件にこだわる阿南案が対立して結論がでなかった。そこで議長の鈴木首相が昭和天皇に判断を仰いだところ、天皇は東郷案を採用。1回目の「聖断」である。10日午前2時30分のことであった。

条件付き受諾の意向を連合国軍側に伝えたところ、回答があった。米国務長官の名前をとって「バーンズ回答」と呼ばれる。12日早朝、日本に伝わったそれは、

「最終的ノ日本国政府ノ形態ハ『ポツタム』宣言ニ遵ヒ日本国国民ノ自由ニ表明スル意思ニ依リ決定セラルヘキモノトス」

という内容であった。

「宣言」に続いて「国体」護持の保障がなかったため、日本政府内部ではまたも停戦派と戦争継続派で意見が対立した。同日午後から翌13日午後まで閣議や最高戦争指導会議が続いたが、結論は出なかった。そこで鈴木首相は再び「聖断」を仰ぐことにした。

14日午前11時2分、皇居内の防空壕で始まった、最後の「御前会議」である。

出席者は先に見た最高戦争指導会議構成員の6構成員と幹事。さらに安倍源基内相、広瀬豊作大蔵相ら閣僚と平沼枢密院議長らも加わった。この席でも「すぐに受諾すべき」という鈴木首相、東郷外相、米内海相と連合国に再照会すべきとする阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長が真っ向から対立した。

以下、『昭和天皇実録』(『実録』)によって経緯をみていきたい。議論が紛糾する中、天皇は発言した。

〈敵の保障占領には一抹の不安なしとしないが、戦争を継続すれば国体も国家の将来もなくなること、これに反し、即時停戦すれば将来発展の根基は残ること、武装解除・戦争犯罪人の差し出しは堪え難きも、国家と国民の幸福のためには、三国干渉時の明治天皇の御決断に倣い、決心した旨を仰せられ、各員の賛成を求められる。

また、陸海軍の統制の困難を予想され、自らラジオにて放送すべきことを述べられた後、速やかに詔書の渙発により心持ちを伝えることをお命じになる〉

正午前、「御前会議」は終わった。