江戸の城下町では離婚・バツイチが当たり前だったのはなぜか

知られざるお江戸の不倫事情
河合 敦 プロフィール

最終的には「詫び状」

名主は豪農や名望家が就任する役職(村役人)だから、さすがに夫とその家族も恐れをなし、夫のほうから鎌倉に出向いて離縁状を渡すことになるのです。それでも例外的に離婚に応じない強者もいました。

そうなると、寺役人は「寺法書」を持って村の名主のもとに出向きます。寺法書には「女が別れたがっているに、なぜ離縁しないのか。今後は女は東慶寺で預かり、もう、お前の女房ではない」と書かれていました。つまり、容赦のない通告です。

ただ、これに承服できないと思ったとき、夫は「違背書」をしたため幕府の寺社奉行へ提出することもできました。すると、奉行所に呼び出され、寺社奉行から「このままでは仮牢入りだぞ」と脅され、最終的には詫び状を書かされるのです。

 

どうせこうなるなら、なぜおとなしく離縁状を出さないのか? そう疑問に思うかもしれません。じつはこれ、夫の意趣返しなのです。「寺法離縁」に発展した場合、女はすぐに解放されず、1年間、寺での生活を余儀なくされる決まりでした。

しかも、寺での生活は厳しく、脱走すれば髪を剃られて丸裸で追放され、戸籍まで抜かれてしまう。つまりは、逃げた女房への腹いせとして苦しめてやろうというわけですね。

さて、この東慶寺の制度は、明治4年、女性に離婚請求権が認められたことで終わりを迎えました。東慶寺へ駆け込んだ女性のその後について、残念ながらほとんど記録に残っていません。ただ、余程の事情からそうした行為に出たわけだから、離婚成立後はきっと幸福な人生をおくったのではないでしょうか。

念のため言っておくと、東慶寺に逃げこんで離婚したあと再婚し、また新しい夫に不満を持ったからといって寺に駆け込むのは、許されませんでした。弱者は救済するけれど、モラルハザードに対しては厳しく対処するということだと思います。

こうした幕府の姿勢は現代の社会福祉を考える上からも、参考になるかも知れませんね。