江戸の城下町では離婚・バツイチが当たり前だったのはなぜか

知られざるお江戸の不倫事情
河合 敦 プロフィール

妻を救う最後の砦「縁切寺」

こうした問題のある夫から逃れられず、悲惨な日常をおくっている女性も少なくなかったですし、どうしても離婚に応じない夫もいました。そうした妻たちを救ってくれる方法が存在しました。それが縁切り寺へ駆け込む、というものです。

代表的な寺が北鎌倉の東慶寺です。鎌倉幕府の執権北条時宗の妻・覚山尼が創建した寺で、彼女は息子の九代執権貞時に「女性は夫に仕える者だが、自殺などをしてしまう不憫な女性を守るため、そうした者たちを寺へ召し抱え、夫との縁を切って身軽にしてやりたい」と願い、朝廷の勅許を得て縁切(御寺法)が認められることになったのだそうです。

Photo by GettyImages

その後、東慶寺の第20世が天秀尼(豊臣秀頼の娘)が徳川家康に縁切の永続を願い出て許され、以後、江戸時代を通じて多くの女性を救ってきました。

駆け込みの理由はやはり、夫の暴力、賭け事、浮気、姑との確執が大半でした。まず、縁切を求めて東慶寺に駆け込んだ女は、境内の寺役人から身元を調べられ、その後、寺の周辺の御用宿へ預けられます。

 

一方、寺役人は飛脚で妻の実家がある村の名主を通し、実家関係者を呼び集め、「夫方と交渉して離縁できるようにしてあげなさい」と協議離婚をすすめます。これを内済離縁と呼びますが、たいていの夫は、妻の実家から妻が東慶寺に駆け込んだことを知った時点で観念し、素直に離縁状を渡したそうです。

このため内済離縁のために妻の実家関係者が東慶寺に来た時点で、夫の離縁状を携えているケースが多く、そのまま女性を寺から引き取って帰っていくことも多かったようです。

妻の実家が交渉しても夫が駄々をこねている場合は、結婚時の仲人や夫本人を呼び出すことになります。彼らがやってくると寺役人は高圧的に叱りとばし、事実を確認したうえで離縁状を書かせました。

離縁状は2枚書かせ1枚は妻に渡し、もう1枚は東慶寺で控えとして保管します。なかには寺に逃げ込んだ妻に夫が陳謝し、復縁することもあったようです。

しかし呼び出してもやってこない夫や、叱られて離婚に応じない場合であります。すると東慶寺では寺法離縁の段階に入ります。出役達書を夫の住む村の名主(庄屋)に送るのです。「近く寺役人が出張し、離婚についての裁判に出向く」という通達です。