「三行半」は一般的だった
前回は、妻の不貞を中心に江戸時代の人たちが不倫をどう考えていたのかをお話しました。当時の不貞は大罪であり、発覚すればその場で、相手を殺しても罪になりませんでした。(「江戸時代、不倫は文字通り『命がけ』の沙汰だったhttp://gendai.ismedia.jp/articles/-/52224)
ただ、法律で認められているとは言え、配偶者を殺してしまえば、不倫があった事実自体は世間に知られてしまいます。それはあまり格好のいい話とは言えないため、対面を重んじる武士たちの多くは、お金で示談にすることも少なくなかったのです。
町人についても不貞の罪は武士と同じ扱いでしたが、さすがに武術の心得がないため相手を殺すことは決してポピュラーな解決策でもありませんし、お金で手を打つほどドライでもありません。
ただし、自分という配偶者がありながら不倫をした相手は許せない。では、どう収めたのでしょうか。当時の一般人たちは不貞を働いた妻については、三行半(離縁状)を渡して縁を切るのが一般的でした。

ただし、縁を切る、つまり離婚についても今の常識と当時のそれはかなり様子が違っています。まず、江戸時代の離縁状は、夫から妻に対して一方的に渡すものであり、離婚する権利は男性にしか認められていませんでした。離縁状を「三行半」と呼ぶのは、三行と半分程度の短い文章で認めることが多かったからです。
「其方事、我ら勝手につき、このたび離縁いたし候、しかる上は、向後何方へ縁付候とも、差しかまえこれ無く候、よって件のごとし」というのが、典型的な離縁状の文言でした。
ただ、これを読んでなにか気付きませんか。
そう、離縁状と言っても、相手の落ち度を理由に家からたたき出すというものではありません。むしろ「離婚するのは私の都合であり、離婚したからには今後は誰と再婚してもかまわない」という意味で、再婚許可状になっていることがわかるのではないでしょうか。
最近の日本史教科書にも、「町人や農民の間では、離縁する妻に三行半を書いて再婚に口出ししない約束が行われた」(『日本史B』三省堂)と明記されています。ご存じない方も多いと思いますが、2006年のセンター試験「日本史B」には「三行半」に関する問題も出ていました。以下に紹介しましょう。
「江戸時代の農民の家や暮らしに関して述べた次の文X~Zについて、その正誤の組合せとして正しいものを、下の(1)~(4)のうちから一つ選べ。
X 田畑の相続にあたって、分割相続が奨励された。
Y 離縁状(三下り半)は、再婚を許可する役割も果たした。
Z 信仰のための組織として、庚申講がつくられた
(1) X正 Y正 Z誤
(2) X正 Y誤 Z誤
(3) X誤 Y正 Z正
(4) X誤 Y誤 Z正 」