リーマンショック以降の世界的な景気後退や金融危機、格差の拡大から、資本主義の行き詰まりがやたらと叫ばれるようになりました。それと同時に、なぜだかアダム・スミスが再注目を浴びるようになっています。
アダム・スミスというと、<見えざる手>なんてキャッチ−な言葉が出てくる『国富論』の著者として、市場原理主義の教祖のようなあつかいでした。ですから、資本主義が駄目になったのなら、その時点でお払い箱になるはず。逆に持上げられるようになるとは、これはまことにおかしな話です。
ところが、『国富論』よりも先に、『道徳感情論』なんて本も書いてたぞ、こっちのほうが凄いんだぞと、世界中でいろんな人が唱えはじめたのです。アダム・スミスは自由放任の市場経済の権化なぞではなく、じつは道徳や共感の大切さを語っていたという、これまでとは180度違う評価の転換が起きたのでした。
しかし、果たしてこの新しいスミス像は正しいのでしょうか。『道徳感情論』は、人間には共感能力があるという話からはじまっています。そのために、道徳や共感の大切さを語った本だと誤解されているのですが、これが大きな間違いなのです。
では、『道徳感情論』とは、いったい何が書かれている書物だというのでしょうか?
その恐るべき真実について、これから順を追って解き明してみたいと思います。何百年も前のこの本が、驚くべきことに現代の世界情勢を説明し、その解決策さえ指し示してくれるのですから。
さて、アダム・スミスは『国富論』を残したことにより、経済学の父と呼ばれています。しかし、250年前の最初の著作『道徳感情論』のタイトルからも判るように、彼の興味は人間の感情にありました。
さらには、その感情が生み出す、人間社会のなんとも摩訶不思議な秩序の仕組みを読み解くことにありました。経済の研究は、あくまでその一部でしかなかったのです。
法律や政治についての著作、さらにおそらくは芸術論や科学論、認識論の著作も書くことにより、その大理論体系は完成するはずでした。
ところが、彼の壮大なる構想は果たせずに終わります。未完成の思想体系が後世で間違った受け取り方をされることを恐れたスミスは、死の一週間前に膨大な草稿をすべて燃やしてしまいました。
しかし、『国富論』も含めて、それらは細かい枝葉の部分に過ぎません。一番肝心な根と幹は、『道徳感情論』によってすでに完成されていたのです。その根幹とはなんでしょうか。
『道徳感情論』の冒頭は、利害関係がまったくないはずの他人の喜びや悲しみに対する<共感>を持つことが人間の本性だという話からはじまっています。どんな悪人であっても<共感>をまったく持たないということはない。そのことが人間社会を動かしている原理だというのです。
こんな話だけだったら1ページで済み、あんなにまで分厚い本を書く必要はないはずです。スミスさんはここに、<公平な観察者>なんていう小難しい存在を持ち込んでくるのです。
みんなが<共感>を持っているのなら、それだけで万事うまく行くと思えるのに、なにゆえそんなものが必要となるのでしょうか。