「復興五輪」という言葉に、拭いきれない違和感が湧いてくる

一体なにを「復興」させるというのか
森田 浩之 プロフィール

聖火リレーが指し示すもの

それにしても、敗戦や災害からの復興をアピールするのに、なぜ東京はこんなにオリンピックという舞台を使いたがるのか。

そもそも2度(1940年大会も加えれば3度)の東京オリンピック以外で、復興をアピールすることを掲げた大会はすぐに思いつかない。たまたま東京には、敗戦や災害のあとにオリンピック開催のチャンスが巡ってきたということなのか。

いや、それだけではないだろう。もしかすると日本人は、オリンピックになんらかのメッセージを持たせるような演出が得意なのかもしれない。

1964年大会の公式映画『東京オリンピック』に戻ると、市川崑は冒頭部分で東洋に初めてやって来る聖火に注目し、リレーの様子をたっぷりと映し出している。

オリンピアで採火された聖火は、トルコのイスタンブールからアジアの各都市を巡る。ベイルート、テヘラン、ラホール、ニューデリー、ラングーン(現ヤンゴン)、バンコク、クアラルンプール、マニラ、香港、台北……。

聖火は台北から、リレーの最初の「国内開催地」であり、戦争の傷跡が深い沖縄に入る。公式映画が聖火リレーのなかでとくに時間を割いて描いているのが、この沖縄と広島の原爆ドーム前の光景だ。原爆ドーム前では今のような警備などなく、聖火ランナーが群衆をかき分けるようにして走るシーンが印象深い。

リレーは鹿児島、宮崎、千歳(札幌近郊)の3ヵ所を起点とする4つのコース(千歳からは2コース)に分かれ、東京を目指した。聖火はすべての都道府県を回り、リレー参加者は計10万713人にのぼった。

日本列島を駆け抜けた聖火は、東京・有楽町にあった都庁前に集められ、さらに皇居前広場の聖火台に移された。開会式当日に最終聖火リレーが行われた青山・外苑を抜ける道は、新しい東京を象徴する新たな動脈だった。

国内リレーのコースは、日本列島の中心、そして今後の経済発展を牽引するのが東京であるということを明確に示した。この聖火リレーは復興した日本の姿を見せただけでなく、これから国が歩もうとしている道筋まで指し示すものだった。

〔PHOTO〕gettyimages

「なぜ原爆を結びつけるのか」

聖火リレーの最終ランナーは、当時19歳の坂井義則だった。早稲田大学1年生で、競走部に所属していた。

誕生日は1945年8月6日、出身は広島。原爆投下から3時間後に生まれた。

新聞は坂井を「原爆っ子」などと呼んだが、彼の生地は広島市から北東に70キロ離れた三次(みよし)市。被爆者ではない。

アメリカの著名な日本学者エドワード・サイデンステッカーは、この人選に不快感を表した。

「いまさら聖火ランナーになぜ原爆を結びつけるのか、アメリカ人はいやな思いをさせられた」

サイデンステッカーはそう語り、最終ランナーの人選は反米主義的なもので、日本人の「自己憐憫」だと主張した。

 

しかし東京大会の組織委員会で事務総長を務めた田畑政治は、坂井の選出はもっと広い視野の下に行われたと言う。

「最後の走者の坂井君が、原爆投下の日に広島県下で生まれた青年であることが象徴的であった。坂井君が最終ランナーであることがアメリカに悪感情を与えるとの批判も一部にあったようだが、われわれが憎むのはアメリカではなく、原爆そのものである。……アメリカにおもねるために、原爆に対する憎しみを口にしえない者は世界平和に背を向ける卑怯者である」

坂井の身体に投影されていたのは、敗戦から復興につながる時代そのものだったとも言えそうだ。彼は後年、次のように語っている。

「東京オリンピックは高度成長の入り口にあった日本の輝きを世界に発信する祭典だった。そして、自分たちはその高揚感を全土に伝えるメッセンジャーだった」